大判例

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東京地方裁判所 平成2年(ワ)216号 判決 1996年2月28日

《住所省略》

原告 株式会社研究社

右代表者代表取締役 池上勝之

右訴訟代理人弁護士 上野宏

同 玉重無得

同 鈴木秀雄

同 竹田穣

同 玉重良知

同 渡邉純雄

《住所省略》

被告 株式会社宝島社(旧商号 株式会社ジェー・アイ・シー・シー)

右代表者代表取締役 蓮見清一

<ほか三名>

右四名訴訟代理人弁護士 新壽夫

同 押切謙徳

同 山口宏

右訴訟復代理人弁護士 芳賀淳

主文

一  被告らは、原告に対し、各自金四〇〇万円及びこれに対する平成二年一月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その一を被告らの連帯負担とし、その余を原告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、第一別紙記載の謝罪広告を第二別紙記載の掲載方法でそれぞれ一回掲載せよ。

2  被告らは、原告に対し、各自金六一六三万二三四八円及びこれに対する平成二年一月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  第2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  本案前の答弁

(一) 本件訴えを却下する。

(二) 訴訟費用は原告の負担とする。

2  本案の答弁

(一) 原告の請求をいずれも棄却する。

(二) 訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告

原告は、出版、印刷、製本、書籍販売等を目的とする会社であり、長年にわたり英語に関する辞書、学習雑誌及び研究書等の出版を多数手掛け、昭和四二年に「新英和中辞典」を、また、昭和五九年に「ライトハウス英和辞典」をそれぞれ出版し、その後版を重ね、現在までに前者について約九〇〇万部、後者について約五〇〇万部を販売している。両辞典は、高校生を中心に大学、実業界その他各方面の一般読者に幅広く利用されている原告の代表的辞書であって、我が国において一番売れている英和辞典である。

(二) 被告

(1) 被告株式会社宝島社(平成五年四月一日に旧商号・株式会社ジェー・アイ・シー・シーから商号変更、以下「被告会社」という。)は、雑誌及び書籍の出版等を目的とし、英語教育に関する出版も多数手掛けているほか、月刊「宝島」の他シリーズとして「別冊宝島」を発行している会社であり、別冊宝島一〇二号「欠陥英和辞典の研究」(以下「本書」という。)を出版して発行した。

(2) 被告蓮見清一(以下「被告蓮見」という。)は、被告会社の代表取締役であり、別冊宝島の発行人として、また、被告石井慎二(以下「被告石井」という。)は、被告会社の被用者であり、別冊宝島の編集人として、それぞれ本書の発行、編集に関与した。

(3) 被告副島隆彦(以下「被告副島」という。)は、ピーター・ヴァン・ゲルダー(以下「ゲルダー」という。)ら三名と共同して本書を執筆した者であり、著者の中で中心的役割を果たした。

2  本書の発行

(一) 被告会社は、平成元年一〇月二四日、本書を出版し、合計約九万〇五〇〇部の売上を記録して、大量の読者の目に触れる状態にするとともに、本書の出版、発行に際し、朝日新聞、読売新聞等の新聞紙上に、「新英和中辞典第五版」(以下「新英和中辞典」という。)及び「ライトハウス英和辞典」(以下「ライトハウス」といい、両辞典を併せて「本件両辞典」という。)はダメ辞書であるとする文言及びゴミくずにしか値しないかのように表現した本書表紙の写真等からなる広告を掲載した。

(二) 本書は、数多い我が国の英和辞典の中から殊更に本件両辞典を誹謗中傷する目的の下に取り上げ、(1) 本件両辞典に掲載されている第三別紙記載の英語例文(以下、第三別紙一の1ないし57記載の各例文を「整理番号A1ないし57」、同二の1ないし10記載の各例文を「整理番号B1ないし10」をもって表す。)が適切で正しいにもかかわらず、全くの誤りであると断定し、本件両辞典は欠陥辞典であると誹謗中傷するとともに(以下「例文の誤り等を指摘する部分」という。)、(2)① 第六別紙記載のとおり、表表紙等に両辞典を引きちぎり赤いペンで×印を付け、ゴミくずのように丸めたり破いたりした写真を掲載して、本件両辞典がゴミくずにしか値しないかのごとく表現し、赤字で「欠陥」、朱色で「日本でいちばん売れている研究社『ライトハウス英和辞典』『新英和中辞典』はダメ辞書だ!」などと記載し、② 第七別紙記載のとおり、例文の正誤とは関係のない事項を本書の本文の随所に言葉汚く摘示して(以下、第七別紙の1ないし34記載の各摘示部分を「整理番号C1ないし34」をもって表す。)、原告を無能な会社として扱った(以下、①②を併せて「編集方針等を批判する部分」という。)。

(三) 原告は、その前身時代を含めて明治四〇年の創業以来、英語教育に関する出版に長年携わり、数々の良書の出版の実績を重ね、現在、英語教育に関する出版社の第一人者として多大な信用を得ている。英和辞典を出版する原告にとっては、利用者に正確な英語の知識、情報を提供することが至上命題であり、利用者にとっても英和辞典に掲載されている例文の正確性は最大の関心事である。したがって、被告らが、本書において、例文の誤り等を指摘する部分により本件両辞典に掲載されている例文が完全に間違っている等の虚偽の事実を摘示し、また、編集方針等を批判する部分により原告が無能な会社であるなどと記載し、本書の出版や広告を通じてこれを不特定多数の者に流布させたことにより、原告が営々として築き上げてきた名誉及び信用は著しく毀損された。

3  被告らの責任原因

(一) 被告蓮見、同石井及び同副島は、本書発行の当初から原告の名誉及び信用を毀損する意図の下に本件両辞典を取り上げ誹謗中傷したのであるから、右三名には故意による共同不法行為が成立する。

(二) 仮に、右三名に原告の名誉及び信用を毀損する意図がなかったとしても、被告副島は本書の著者として、被告石井は本書の編集に携わる者として、被告蓮見は本書の発行に携わる者として、本書の著作、編集、発行に際して他人の名誉及び信用を違法に毀損するような表現行為を行わないよう注意を払うべき義務を負っているにもかかわらず、前記内容の本書を著作、編集、発行し、かつ、新聞紙上に本書の広告を掲載して右注意義務を怠ったのであるから、右三名には過失による共同不法行為が成立する。

(三) 被告蓮見は被告会社の代表者であり、また、被告石井は被告会社の被用者であって、本書の発行、編集を被告会社の職務として行ったものであるから、被告会社には法人の不法行為ないし使用者責任の不法行為が成立する。

4  損害

(一) 逸失利益 四四四一万五一九六円

高校の教育現場においては学校が生徒に対し英和辞典のいずれか一冊を推薦すること(以下「一点推薦」という。)がかねてから行われていた。本書の出版前の平成元年度に、新英和中辞典を一点推薦していた高校は全国で九七校、ライトハウスを一点推薦していた高校は全国で五三三校あったが、本書の出版後である平成二年度には、それぞれ一七校、一七八校が一点推薦を取りやめた。推薦の取りやめの要因として通常考えられる唯一のものは他社の辞書の新刊又は改訂版の出版であるが、これらは平成元年にはなかった。したがって、平成二年度における一点推薦の取りやめは、本書が本件両辞典を欠陥辞書等と批判したことによるものである。

一点推薦された場合、推薦した学校の新入生の少なくとも七割が当該辞書を購入するが、新英和中辞典の推薦を取りやめた一七校の一学年の生徒数(平成元年度)は七四六一人、ライトハウスの推薦を取りやめた一七八校の一学年の生徒数(平成元年度)は六万九一五一人であるから、本書の出版により本件両辞典を購入しなかった生徒数は、少なくとも新英和中辞典が五二二二人(七四六一人の七割)、ライトハウスが四万八四〇五人(六万九一五一人の七割)である。本件両辞典の粗利益は、卸値から製造原価を控除した金額であるところ、並装版一冊につき、新英和中辞典の場合、卸値が一七七八円、製造原価が八五五円であるから、粗利益は九二三円であり、ライトハウスの場合、卸値が一五六四円、製造原価が七四六円であるから、粗利益は八一八円である。

そうすると、本書発行による原告の逸失利益は、本書の出版により本件両辞典を購入しなかった生徒数に粗利益を乗じた額となるから、新英和中辞典について四八一万九九〇六円、ライトハウスについて三九五九万五二九〇円であり、合計四四四一万五一九六円となる。

(二) 本書対策費 七二一万七一五二円

本書出版により本件両辞典の売上が著しく落ち込み、両辞典の内容に対する利用者の不安が広がるなどの影響が生じた。そこで、原告は、売上減少による原告の損害を最小限に防止し、原告に対する信頼を回復するため、新聞広告を出したり、「『欠陥英和辞典の研究』の分析」と題する小冊子等を作成するなどの対策を講じ、第九別紙1、2、4記載のとおりの費用合計七二一万七一五二円を支出した。なお、同別紙4記載の費用は、原告の関連会社で別法人である研究社販売株式会社(以下「研究社販売」という。)が本書対策のために支出した同別紙3記載の広告宣伝費一四七五万四〇九〇円のうち四分の一相当額であり、研究社販売と原告との間で原告が負担することに合意し、原告が研究社販売に支払った費用である。また、広告費の一部は、原告の関連会社である研究社出版株式会社(以下「研究社出版」という。)の広告に関するものであるが、これは原告が研究社出版の広告スペースを利用して本件に関する広告を掲載したことから、同別紙3記載の費用に含めることに合意されたものである。

(三) 無形損害 一〇〇〇万円

原告は、明治四〇年の創業以来、英語に関する辞書の出版に携わり、日本の英語教育の普及に貢献してきた会社であり、社会から高い評価を得てきた。現在、原告が手掛けている業務は辞書の発行のみであり、中でも本件両辞典は原告の主力商品として総売上のほぼ半数を占めている。辞書は記載内容の正確性によってその評価が決まるものであるが、本書により本件両辞典が欠陥であるとの非難がセンセーショナルにされたことから、原告の築き上げてきた名誉及び信用は著しく毀損された。本書発行の前後である平成元年度と平成二年度の売上を比べると、新英和中辞典は部数で四万三三四〇部、割合にして約二〇パーセント、ライトハウスは部数で一〇万五六五六部、割合にして約三一パーセントそれぞれ減少しており、本書の影響は顕著である。また、本書の対策のため、アルバイトを雇ったり、従業員を時間外勤務させたほか、予定していた辞書の刊行が数か月から数年にわたり遅れるなど、原告の業務に支障を生じ、社内の士気にも影響が出たばかりでなく、名誉回復のため本件訴訟の提起を余儀なくされた。そして、本書対策費として請求している額は実際に支出した額よりはるかに少ない金額であること、損害額の算定が困難であるなど立証困難な財産的損害は無形損害として斟酌されるべきであることなどを総合勘案すれば、名誉及び信用の毀損による無形損害は一〇〇〇万円を下らない。

5  名誉及び信用の回復処分

被告が、本書を出版して本件両辞典を誹謗中傷するとともに、朝日新聞、読売新聞等の新聞紙上に大々的に本書の広告を掲載して、名誉及び信用の毀損行為を行ったため、原告の信用は著しく低下し、教育現場ではいまだに本書に対する関心は強く、本件両辞典のその後の販売活動にも支障を来している。したがって、原告の名誉及び信用の回復のためには、金銭的賠償だけでは足りず、謝罪広告が必要であり、その内容及び方法としては、第一別紙記載の謝罪広告を第二別紙記載の掲載方法でそれぞれ一回掲載することが相当である。

6  よって、原告は、被告蓮見、同石井及び同副島に対しては、共同不法行為に基づき、また、被告会社に対しては法人の不法行為ないし使用者責任の不法行為に基づき、前記謝罪広告の掲載と損害賠償として六一六三万二三四八円及びこれに対する不法行為の日の後である平成二年一月二八日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  本案前の抗弁

1  例文の誤り等を指摘する部分について

本書は、学術上の著作物である本件両辞典を学問的研究の対象とし、日本人の学習用英和辞典としての性格に照らし、掲載されている英語例文が現在及び将来の日本人にとって国際交流手段としての英語を習得する際の例文として正しい又は適切であるか否か、すなわち、現在のネイティブ・スピーカーにとって自然な英語であるかどうかという観点から、内容の誤りや不適切な記述等を指摘して批判するものである。そして、右の観点から例文の誤り等の指摘が正しいかどうかは、国際交流手段としての英語力を養う英語例文として何が適切かにかかわる学術上の論争というべきであり、ネイティブ・スピーカーの感覚という個人差の激しい基準に照らして解決されるものである。このような論争は関係者による研究、批判、再批判等の過程を通じて学問の場で決着を付けるべき事柄であって、裁判所が法令を適用することによって解決できるものではない。また、学問の自由、表現の自由を真に保障するためには、国家は学術上の対立について中立性を保つべきであるから、裁判所が学術上の論争を解決すべきものでもない。本件において、例文の誤り等を指摘する部分が不法行為に該当するか否かの判断に当たっては、このような学術上の論争についての判断が必要不可欠であり、紛争の核心となっているから、本件訴えのうち、右指摘部分を理由とする請求は法律上の争訟に当たらない。

2  編集方針等を批判する部分について

編集方針等の批判は、例文の誤り等の指摘を前提とする論評であるから、その違法性の有無及び程度は、例文の誤り等の指摘が違法であるかの判断をまって初めて判断できる性質のものである。したがって、編集方針等を批判する部分が不法行為に該当するか否かの判断に当たっては、例文の誤り等の指摘が正しいかどうかの学術上の論争についての判断が必要不可欠であり、紛争の核心となっているから、本件訴えのうち、右批判部分を理由とする請求もまた法律上の争訟に当たらない。

なお、本書に刺激的表現が存在したとしても、それ自体なんら具体的事実を指摘するものではなく、原告の名誉を毀損するものではないから、これのみを理由として本件訴えが法律上の争訟に当たるとはいえない。

三  本案前の抗弁に対する反論

1  例文の誤り等を指摘する部分について

本書の指摘が真実であるというためには、正誤についてのいかなる基準から判断しても、本件両辞典の例文が誤っているといえることが要件となるところ、その判断基準は被告らの主張する現在のネイティブ・スピーカーにとって自然な英語かどうかに尽きるものではなく、英米の権威ある辞書に同一又は類似の例文が掲載されているか否かも、より客観的な基準として認められるべきである。むしろ、本書は冒頭部分で英米を代表する英語辞典の例文との比較の上で本件両辞典が誤りであると断定しており、一般人が本書を通読したときには、本書において採用されている例文の正誤の判断基準が英米の権威ある辞書との比較であると理解するはずである。そして、第四別紙記載のとおり、本書が誤っているなどと指摘する例文は、いずれも英米の権威ある辞書に同一又は類似の例文が掲載されているから、被告らの指摘は虚偽の事実の陳述・流布であるといわざるを得ない。

学術上の論争に司法審査が及ばないとする実質的根拠は、法律の専門家によって構成され法律に従って判断する裁判所にとって、学問上の判断は不可能であるという判断能力の限界に求められるところ、本件の争点となる本書の指摘が真実であるか否かは、右判断基準を前提とすれば、裁判所においても判断可能な事柄である。

2  編集方針等を批判する部分について

例文の誤り等を指摘する部分に司法審査が及ぶことを前提とすれば、被告らの主張は理由がない。加えて、本書の表紙や本文中の刺激的な表現に触れた読者は、これらの表現行為によって摘示されている事実が、学術上の論争を前提としているものと認識するとは到底考えられない。学術上の論争というためには、一定のルールに則っていることが必要であり、単なる誹謗中傷や愚弄は、仮に学問上の問題に関係があるかのごとき形式をとっていても、学問の自由ないし表現の自由の保障を受けない。本書の表紙や本文中の刺激的な表現は、誹謗中傷や愚弄の類であって、正当な根拠に基づくものではなく、学問的批判の名に値せず、例文の正誤に関わらずそれ自体原告の名誉を毀損するものであり、このことは裁判所においても判断可能な事柄であることはいうまでもない。

四  請求原因に対する認否

1  請求原因1(当事者)(一)のうち、本件両辞典の販売部数の点は知らないが、その余は認める。同(二)は認める。

2  同2(本書の発行)(一)は認める。同(二)のうち、本書において第三別紙記載の例文に誤りがあると指摘していること、本書の表裏の表紙、見返し及び扉におおむね第六別紙記載の表現が存在していること並びに本書の本文中に第七別紙記載の文言が存在していることは認め、その余は否認する。本書は、本件両辞典の誤りを正し、我が国の英語教育の水準を高めるとともに、英和辞典の編纂につき真剣な議論がされることを意図するものであり、原告に対する誹謗中傷を目的とするものではない。

同(三)は争う。ある表現行為が人の受ける客観的な社会的評価を低下させるか否かは、その表現が用いられた時代、社会及び状況の下において、かつ、全体の文脈との関係において、一般人が理解し感得したところを基準として、言論・出版界で一般的に許容されるものとして使用されている表現の方法であるか否かが重要な判断基準となる。本書のうち編集方針等を批判する部分の表現は、現在の我が国における言論・出版界において日常的に用いられているものであり、また、その表現の文言だけからではなく、表現の置かれている文脈との関係において判断すると、原告の社会的評価及び信用を低下させるものではない。

3  同3(被告らの責任原因)は争う。

4  同4(損害)の(一)(逸失利益)のうち、一点推薦を取りやめた学校の数及び一点推薦された場合に当該辞書を購入する生徒の割合が七割であることは否認し、その余は争う。仮に、逸失利益があるとしても、粗利益から一般管理費及び販売費を控除した純利益を算定の基礎とすべきである。

そもそも一点推薦は、ひとたび推薦されれば翌年度も継続して推薦されるという確固たるものではない。辞書は毎年同数の売上が期待できるというものではなく、出版から年数を経ることによる陳腐化、競合する他の辞書の出版、改訂や広告等の営業努力等により変動するものであり、一点推薦の獲得も右のような事情に左右されるものである。そして、ライトハウスは本書発行時において既に出版から五年を経過し、翌年には改訂が予定されており、新英和中辞典第五版も改訂から四年を経過していたのに対し、昭和六一年から平成元年までの間に、競合商品となる他社の学習用英和辞典が次々に出版され、競争が激化してきていた。そのうえ原告は、本書発行直後に自社に関係の深いネイティブ・スピーカーである英語学者数人に本書の指摘を一つ一つ吟味させ、その結果を「『欠陥英和辞典の研究』の分析」と題する小冊子にまとめ、これを全国の高校に配付したが、その内容は本書の指摘のあった九一例の例文のうち四五例について修正又は削除すべきであるとのコメントを含むものであり、また、原告自身の営業活動の中でもライトハウスの改訂版が平成二年秋に刊行されることが予告されていたのであって、一点推薦を決める現場の英語教師としては本件両辞典が大幅な改訂を控えていることを考慮したものと考えられる。したがって、一点推薦校の減少があったとしても、本書の発行との間に相当因果関係がない。

同(二)(本書対策費)は争う。「『欠陥英和辞典の研究』の分析」と題する小冊子の内容は前記のとおりであり、本書の反論にはなっておらず、本書の発行によって右小冊子の発行を強いられたという関係にはない。

また、広告費の一部は原告の出版物ではなく研究社出版の広告に係るものであり、残余の部分も通常の営業活動に伴う広告以上のものではない。そもそも原告は、研究社販売との間で販売委託契約を締結して販売委託料を支払っているのであるから、広告費は研究社販売が負担すべきものである。

同(三)(無形損害)は争う。本件において、原告に金銭的評価が困難な損害は発生しておらず、立証が困難な損害について具体的主張もないから、無形損害は認められるべきではない。

5  同5(名誉回復処分)は争う。

五  抗弁

1  例文の誤り等を指摘する部分の違法性阻却

(一) 憲法二一条一項が保障する表現の自由は民主制国家の基礎をなすものであり、とりわけ公共的事項に関する表現の自由は特に重要な憲法上の権利として尊重される必要があるから、その制約は厳格かつ明確な要件の下において謙抑的にされるべきものである。これを本書のうち例文の誤り等を指摘する部分についてみると、他人の学術上の著作物を学問的研究の対象とし内容の誤りやその著作物の性格に照らして不適切な記述等を批判し、これを公にすることは、表現の自由の保障の範囲内の事柄である。そして、憲法二一条一項の趣旨にかんがみれば、これらの批判が適法と認められるためには、批判の内容が客観的に真実であり適切であること、又は批判する者がそのように信じたことについて相当な理由があることを必要とするものではなく、批判する者が批判の内容が正当であることを信じてこれを行うことをもって足りると解すべきである。

本書は、早稲田大学法学部を卒業し、その後三年半にわたり英国系銀行で業務に従事し、本書を著述した当時は英語の教師、著述家として活動していた被告副島が、多数の英語辞書の検討を含む長年にわたる英語研究の成果を、英語を母国語とする共著者ゲルダー等の協力を得て、著作物として著したものを出版したものであり、同被告においてその内容が正当であることを信じていたことに疑いの余地はない。また、被告蓮見及び同石井も、被告副島からその著作物の作成経緯等を聞くなどして、本書の内容が正当であると信じていた。

(二) 原告は本書の例文の誤り等の指摘が誤っている旨主張するのであえて論及するに、本書の記載内容はいずれも客観的に見ても適正なものであり、このことは、原告自身において本書の指摘のうち五か所につき例文の誤りを認めていること、原告が本書発行直後に刊行した前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」において、原告に関係の深いネイティブ・スピーカーらが本書に好意的なコメントを随所でしていること、原告は、平成三年一月、ライトハウスの改訂版である第二版(以下「ライトハウス第二版」という。)を出版したが、その中で本書で指摘されたもののうち八〇・三パーセントが訂正されていること、平成六年一一月、新英和中辞典第五版の改訂版である第六版を出版したが、その中でも本書で指摘されたもののうち六六・七パーセントが訂正されていることなどから容易に推認される。

2  公正な論評の法理

本書の発行は、公正な論評の法理により違法性が阻却される。すなわち、公共の利害に関する事項又は一般の公衆の関心事であるような事項については何人といえども論評の自由を有し、それが公的活動と無関係な私的生活の暴露や人身攻撃にわたらず、かつ、論評が公正である限りは、いかにその用語や表現が激越、辛辣であろうと、また結果として被論評者が社会から受ける評価が低下することがあろうと、論評者は名誉毀損の責任を問われることがない。そして、論評が公正であるというためには、論評を行う者がその論評を正当と信じて行うことをもって足り、その論評が客観的に公正であることを要しないが、一般的には論評の前提をなすものとして摘示された事実がその主要な部分において真実であるか、真実と信じることにつき相当の理由があることが必要であるとされている。

本書の内容は、高校・大学の教育現場で代表的な英和辞典として使用されている本件両辞典について、その内容の誤りや不適切な例文等を指摘し、編集方針等を批判するものであるから、公共の利害に関する事項又は一般の公衆の関心事であるような事項に関するものである。また、論評の前提となる事実、すなわち、原告の発行した辞書の中に、被告らの指摘したような例文等の記載があること、ネイティブ・スピーカーがこれにつき批判したこと、被告副島がネイティブ・スピーカーの右批判を念頭においていたことは、いずれも真実であることが明らかである。そして、本書の内容は、私的生活の暴露や人身攻撃にわたるものではなく、また本件両辞典をその掲載する例文についてネイティブ・スピーカーが不自然に感じるという視点から評価した場合、本件両辞典が欠陥辞書であるという指摘が、一つのありうる見解、立論として成り立つのであり、被告副島において右指摘が正当であると信じていたことに疑いの余地はないから、公正な論評に当たる。

なお、仮に、論評の前提となる事実が本件両辞典の例文等が誤っている又は不適切であること自体であるとの考え方をとるとしても、この場合、公正な論評といえるための要件として、論評の前提となる事実の真実性又は真実と信ずることについての相当の理由は必要ではなく、論評を行う者が真実でないことを知りながら殊更に虚偽の事実を摘示した場合又は私的生活の暴露や人身攻撃の場合でない限り、論評を行う者がその批判、意見を正当であると信じて行うことをもって足りると解すべきであるところ、本件では右各要件を満たすから、公正な論評といえる。

原告は、本書の発行が原告に対する誹謗中傷を目的としたものであった旨主張するが、本書は、我が国の英語教育が国際化する社会の中で十分に役割を果たしていない状況であることにつき批判する一環として、我が国で発行されている英和辞典は内容に多くの誤りがあり例文等も適切ではなく、英語に対する国民の正しい理解を増進させる点からは到底満足な水準にあるとは認められないとの見地から、高い販売実績を示し教育現場で代表的な英和辞典として使用されている本件両辞典に批判を加えることにより、英和辞典の在り方や我が国における英語教育に改革が加えられることを期待して発行されたものであるから、本書の発行は原告に対する誹謗中傷を目的とするものではなく、専ら公益を図る目的に出たものである。

六  抗弁に対する反論

1  例文の誤り等を指摘する部分の違法性

憲法の保障する表現の自由も無制限なものではなく、虚偽の事実を摘示し他人の名誉を毀損することは表現の自由の範囲を逸脱している。表現の自由と名誉権との調整を考慮すると、ある表現行為が名誉毀損に当たらないというためには、表現内容が公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的に出た場合であり、摘示された事実が真実であることが必要である。ところが、本書は一出版社である原告の出版物を誹謗中傷するものであり、表現内容が公共の利害に関する事実に係っているとは到底いえない。また、本書は一貫して原告を誹謗中傷する目的で作成されており、公益を図る目的は全くない。さらに、本件両辞典と同一又は類似の英語例文が内外の権威ある英語辞典に散見されることからすれば、本書において摘示された事実が真実でないことは明らかである。なお、第三別紙の整理番号A28、36、B8の三例については、英米人からみて本書の指摘に一理あると認めうるものであるが、それでも英米の辞書に同種の例文があることからすれば、これらを間違いであると断定することはできない。

2  公正な論評の法理

公正な論評というためには、批判に相当性があることが必要であり、表現方法にも一定の限界があるのであって、悪意により論評したり、不当な誇張的表現、罵声に等しい用語を用い、他人の人格を攻撃し、誹謗することは、公正な論評とはいえない。本書は、第六別紙記載のとおり、表表紙に本件両辞典を引きちぎり赤いペンで×印を書き、ゴミくずのように丸めたり、破いたりした写真を掲載して、本件両辞典があたかもゴミくずにしか値しないかのごとく表現した上、さらに赤字で「欠陥」あるいは朱色で「日本でいちばん売れている研究社『ライトハウス英和辞典』『新英和中辞典』はダメ辞書だ!」等と記載し、また第七別紙記載のとおり、例文の正誤とは全く関係のない事項について本書の随所に揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現を摘示して原告を無能な会社として扱っているのであるが、これらの論評に相当の根拠はなく、その表現方法に原告の立場に対する配慮もなく、罵声に等しい用語により原告の人格を攻撃し誹謗するものであることは多言を要しない。

第三証拠《省略》

理由

第一本件訴えの適法性について

被告らは、本件訴えは、日本人にとって国際交流手段としての英語力を養う英語例文として何が適切かという観点から学術上の著作物である本件両辞典を批判した本書の学術上の論争にかかわる表現行為について名誉毀損の不法行為責任を問うものであって、その成否を決するに当たっては、右のような学術上の論争についての判断が必要不可欠であり、紛争の核心となっているから、法律上の争訟に当たらない旨主張するのであって、この点について判断する。

裁判所が訴訟において審判することのできる対象は、裁判所法三条にいう法律上の争訟、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限定されている。そして、訴訟上の請求それ自体は当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、学術上の論争に関する判断が請求の当否を決する前提問題となっており、この論争が当事者間の紛争の本質的な争点をなすとともに、右の判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものと認められるような場合には、裁判所が法令の適用により終局的に解決することに適しないものとして、当該訴訟は、法律上の争訟に当たらないこともあるというべきである。

しかしながら、右のような結論を承認することの実質的な理由は、学術上の論争については、一般的に学問の自由が保障されているとともに、裁判所の判断能力にも限界があることにほかならないが、内心における学問的活動は別として、学問上の諸活動も絶対的な自由を享有するものではなく、人格権に由来する他人の名誉の保護との関係で制約を受ける場合のあることは免れないところである。学術上の論争に関し、他人の名誉を毀損するような表現行為により自己の研究成果を発表した者は、一定の適法要件を備えた場合を除き、不法行為責任を負うことがあるのは当然であるといわなければならない。本書が、被告ら主張のような学術上の論争の観点から本件両辞典を批判するものであり、本件訴えが、この点に関する判断をも前提問題としている側面を有するものであるとしても、被告らの本書発行等により名誉が毀損されたことを原因として不法行為に基づく損害賠償等の請求をしている本件において、後述のとおり右請求の当否を判断する前提となる抗弁事実につき、本書の記載する事実が真実であるか又は本書の論評が公正な論評に当たるかを裁判所が判断することは、何ら学問の自由を侵害するものではないし、また、右の点については、後に個別の記載事項について検討するように、いずれも証拠によって認定判断することが可能であるから、裁判所の判断能力の限界を超えるものでもない。

したがって、本件訴えは法律上の争訟に当たるというべきである。

第二名誉毀損行為について

一  請求原因1(当事者)(一)の事実は、販売部数の点を除き、当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、新英和中辞典は、昭和六〇年に第五版、平成六年一一月に第六版が出版され、第五版までの発行部数は約九〇〇万部に及んだこと、ライトハウス英和辞典は、平成二年一〇月に第二版が出版され、初版だけでも発行部数は約二八〇万部であることが認められる。同(二)の事実は当事者間に争いがない。

二  請求原因2(本書の発行)(一)の事実、(二)のうち、本書において第三別紙記載の例文に誤りがあると指摘していること、本書の表裏の表紙、見返し及び扉におおむね第六別紙記載の表現が存在していること及び本書の本文中に第七別紙記載の文言が存在していることは当事者間に争いがない。

三  右争いのない事実及び《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

1  本書は、題名を「欠陥英和辞典の研究」として、第六別紙記載のとおり、背表紙に右題名と「研究社『ライトハウス英和辞典』『新英和中辞典』はダメ辞書だ!」との文言を、また、表表紙に右題名と「日本でいちばん売れている研究社『ライトハウス英和辞典』『新英和中辞典』はダメ辞書だ!」「年間五〇万部売れているという研究社『ライトハウス英和辞典』、総計七〇〇万部も使われている『新英和中辞典』――日本の最もポピュラーな二つの辞書がまちがいだらけだったとしたら、これはもうスキャンダルではないか! 日本語、英語双方の観点から二つの辞書を精査して、英和辞典の欠陥を白日のもとにさらけ出した!」との各文言及び本件両辞典の箱を破損し、辞書本文の所々に赤字で×印を付して頁を引きちぎり紙屑のように丸めるなどした写真を、表見返し、裏見返し及び扉一枚目に右同様の写真を、さらに、裏表紙に題名と「こんな辞書がはたして使いものになるか!?」との文言及び本件両辞典の箱を破損した写真を、扉二枚目に右同様の写真をそれぞれ掲載している。

2  次に、本書は、本文の第一章「研究社の辞書に隠された驚くべき事実」の中で、「はっきりと言っておく。研究社の『新英和中辞典(第五版、一九八五)』'New Collegiate English-Japanese Dictionary 5th Edition'と『ライトハウス英和辞典(一九八四)』'Lighthouse English-Japanese Dictionary'の二冊の中の全英文例文のうち約二〇%は、使いものにならない。不適切である。そして、なかでも五%前後は、完全にまちがいである。メチャクチャである。誰が、いったい、どういう経緯で、これほどのひどい偽文造文作業を、るいるいと成してきたのか?」(整理番号C5)との記載をした直後に、「その点についてのあれこれは、後に述べることにして、では、何と比較してその英文例文がメチャクチャなのか、と言うならば、私たちは、今、手元に置いてある'Pocket Oxford Dictionary'(いわゆるP. O. D.)と、'COLLINS COBUILD Essential English Dictionary'(コリンズ・コビュルド英辞典)と'Webster's New World Dictionary Third College Edition'(ウェブスター大辞典)と'Longman Dictionary of Contemporary English'(ロングマン現代英語辞典)と'The Random House Thesaurus College Edition'(ランダムハウス英語辞典)と、他ならぬ研究社の『新英和大辞典(第五版)』と、それから八八年四月、すなわち去年出た大修館の『ジーニアス英和辞典』など合計三〇冊ほどの英語辞典の例文との比較のうえで言うのである。」とし、それに引き続いて、「なぜこんなひどい辞書ができたのか」との分節を設け、新英和中辞典の整理番号A1の例文とライトハウスの整理番号A2の例文を抽出して、整理番号A1については「どんな英語国民にも通じない。」、整理番号A2については「まちがいである。どんな英語国民に聞いてもいい。」などと断定している。そして、第二章以下において、より具体的に、本件両辞典に掲載されている整理番号A2ないし57、同B1ないし10の各例文及び第八別紙記載の各例文(以下「整理番号D1ないし18」をもって表す。)を問題のある例文として掲げ、その冒頭に×又は△の印を付し、矢印をして冒頭に○印を付した訂正例文を掲げるなどした上、例えば、「この例文が標準的な英文として英語圏で通用する可能性は残念ながらまったくない。」(整理番号A3)、「英語国民は、通常このような使い方はしない。」(同4)、「こんな英文は、英語圏では例文として通用しないことぐらいは分かるべきだろう。」(同5)、「いささか時代遅れで、今日ではほとんど使われない。」(同6)、「きわめてインフォーマルな会話か、よっぽどの低学歴の人びと、あるいは日本人たちの間でしか通用しないものである。」(同7)、「このgainの使い方は誤りである。……もし学生たちがこの例文を英作文のときに使ったとしたら、自分は辞書に出ていた文をそのまま使ったのだといくら主張しても、バツをもらうことになるだろう。」(同8)、「もう百年間かそれ以上、英語圏では使われていない表現である。もし、こんな変な英文を英語圏の国で使ったら、必ず笑われるだろう。」(同21)、「日本人にはよく分かるだろうが、英文としては誤りである。……もし、ここであれこれ屁理屈をつけて居直るならば、あとは地獄への道しか残されていない。」(同27)などと指摘する部分(例文の誤り等を指摘する部分)が続いている。その内容は、現在の英語国民に通用するか、内外の英語辞書との比較、例文の意味内容に偏見があるか、単語の意味や文法的に見て適切か、例文が簡単すぎて意味が曖昧であるか、重要な単語の意味や例文が十分掲載されているかなどの観点から、本件両辞典の例文等が誤っている又は適切でないと指摘するものである。

3  さらに、第七別紙記載のとおり、本書の全体にわたり、本件両辞典は間違いだらけで使い物にならないこと、原告及び本件両辞典を編纂した英語学者と英文校閲者は無能であること、本件両辞典は絶版にすべきであることなどを内容とする編集方針等を批判する部分(整理番号C1ないし34)を記載している。

4  被告らは、本書を約九万〇五〇〇部発行するとともに、本書の出版、発行に際し、朝日新聞、読売新聞等の新聞紙上に本件両辞典はダメ辞書であるとする文言及びゴミくずにしか値しないかのように表現した本書表紙の写真等からなる広告を掲載した。

四  ところで、英和辞典に限らず、およそ辞書は、言葉の読み方、意義、語源、用例等を解説した書物であり、当該分野の権威者が多数の執筆者を擁し長年の歳月と多大な費用をかけて編纂するのが通例であること、利用者は言葉の読み方等に関する知識を習得するに当たり確実な基準として繰り返し参照するものであって、その内容の正確性については一般の書物とは比較にならないほど大きな信頼を得ていることは公知の事実であるから、辞書の内容が誤っているということは利用者にとってほとんど考えられないことであり、その信頼を著しく損なうものといわなければならない。殊に、本件両辞典にあっては、初版から現在までに版を重ね、新英和中辞典は第五版までで約九〇〇万部、ライトハウスは初版だけでも約二八〇万部が発行され、高校生を中心に大学、実業界その他各方面の一般読者に幅広く利用されている原告の代表的辞書であって、我が国において一番売れている英和辞典であることは前示のとおりであり、本件両辞典がその内容の正確性において読者の絶大な信頼を得ていることは明らかである。本書は、こうした本件両辞典について、掲載されている例文のかなりのものが誤っている又は適切でないなどと指摘した上、本件両辞典が欠陥辞書であり使い物にならず、原告や本件両辞典を編纂した英語学者、英文校閲者は無能であるなどと批判するものであり、被告会社が本書を発行して、合計約九万〇五〇〇部の売上を記録し、新聞紙上に本書の広告を掲載したことにより、本件両辞典及びそれを出版する原告の社会的評価が低下したことは、容易に推認されるところである。なお、原告は、本書によりその名誉のほか信用も毀損された旨主張するが、名誉は人に対する社会的評価であり、信用についての評価をも含むものであるから、以下、このような信用をも含む社会的評価の低下について名誉毀損の不法行為の成否を考察することとする。

ところで、被告らは、本書のうち編集方針等を批判する部分の表現は、現在の我が国における言論・出版界において日常的に用いられているものであり、また、その表現の文言からだけではなく、表現の置かれている文脈との関係において判断すると、原告の社会的評価を低下させるものではない旨主張する。しかし、社会的評価の低下の有無は、一般読者の普通の注意と読み方を基準として、例文の誤り等を指摘する部分も含めた本書全体から受ける印象をもとに判断すべきであって、個々の編集方針等を批判する部分が、仮にその一つ一つをとれば現在の我が国における言論・出版界において日常的に用いられているものであり、また、その表現の置かれている文脈との関係において首肯し得る部分があるとしても、本書は全体として原告の社会的評価を低下させると認めるに足りるというべきである。

さらに、編集方針等を批判する部分のうち、本件両辞典を編纂した英語学者や英文校閲者らが無能であることを内容とするものは、直接的にはこれらの者の社会的評価を低下させるものであるが、辞書の製作においては、編者や校閲者らの能力が辞書の優劣を直ちに決する関係にあるから、これらの者が無能であると指摘することは、取りも直さず、原告の辞書が劣った内容であることを象徴的に摘示するものにほかならず、原告自身の社会的評価をも低下させることになるのはいうまでもない。

第三抗弁について

一  判断の枠組み

名誉の保護と表現の自由の保護との調整を図る見地からすれば、事実とそれを前提とする論評ないし意見(以下、第六別紙記載の表現行為をも含め、単に「論評」という。)とからなる表現行為により、その対象とされた者の社会的評価を低下させることがあっても、その表現行為が公共の利害に関する事項又は一般公衆の関心事に係り、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該前提事実につき主要な部分において真実であることの証明があるか、表現行為者において真実と信ずるにつき相当な理由があり、かつ、当該論評が人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでなく、表現行為者が当該論評を主観的に正当と信じて行ったものである限り、論評が客観的に正当であるか否かにかかわらず、当該表現行為は、名誉毀損の不法行為を構成しないものというべきである。これを敷えんすると、ある者に関する虚偽の事実が摘示された場合に、受け手は事実の真偽に関する検証手段を持たないため、直ちにその者の名誉が侵害されがちであるのに対し、事実を摘示した表現行為者は当該事実の真偽を確認することが可能な場合が多いといえるから、当該事実が主要な部分において真実であるか真実と信ずるにつき相当な理由がない限り、当該表現行為は表現の自由の濫用に当たるといわざるを得ない。これに対し、論評は、表現行為者がその客観的正当性を証明することが必ずしも容易でなく、裁判所がこれを証拠によって決するよりは、当事者間の言論の応酬を踏まえて読者の判断にゆだねることとし、的外れな論評もその前提事実とは別にそれ自体として不法行為を構成することはないものと解するのが、表現の自由の保障に資するゆえんである。しかも、論評は、その前提事実からみて論評としては客観的に正当といえない場合には、前提事実から論評内容を合理的に推論できないためにかえって受け手が論評内容に疑問を持ち、人の名誉の侵害の程度が軽微にとどまることがあることも否定し難い。もっとも、論評が、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱し、又は表現行為者が主観的に正当と信じて行ったものでない場合には、保護に値しないといわざるを得ないのであって、論評としての域を逸脱するか否かを判断するに当たっては、表現方法が執拗であるか、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっているかなど表現行為者側の事情のほか、当該論評対象の性格や置かれた立場など被論評者側の事情も考慮することを要するものというべきである。

なお、被告らは、憲法二一条一項の趣旨にかんがみ、本書のうち例文の誤り等を指摘する部分が適法と認められるためには、批判する者が批判の内容が正当であることを信じてこれを行うことをもって足り、批判の内容が客観的に真実かつ適切であること、又は批判する者がそのように信じたことについて相当な理由があることを必要とするものではなく、また、論評部分についても、論評の前提となる事実の真実性又は真実と信ずることについての相当の理由は必要ではなく、論評を行う者が真実でないことを知りながら殊更に虚偽の事実を摘示した場合又は私的生活の暴露や人身攻撃の場合でない限り、論評を行う者がその批判、意見を正当であると信じて行うことをもって足りる旨主張する。なるほど本書は、被告らが指摘するとおり、他人の学術上の著作物を学問的研究の対象とし内容の誤りやその著作物の性格に照らして不適切な記述等を批判したものといえないこともない。しかし、このような表現行為も、批判される者の利益を度外視して無制限に許容されるものではなく、人の名誉が人格権に由来する人間存在の根幹にかかわる利益であることにかんがみれば、このような表現行為が表現の自由の保障を受けるのは、少なくとも前提としている事実が真実であるか、真実と信ずるにつき相当の理由がある場合に限られると解すべきであって、批判される者が本件のような法人であっても、右の理を異にするものではない。被告らの右主張が、例文の誤り等を指摘する部分のうち事実に係るもの又は論評の前提となる事実についてまで、事実の真実性又は真実と信ずることについての相当性を適法要件としない趣旨であるとすれば、これを採用することはできない。

二  事項の公共性

前示のとおり、本書は、初版から現在までに多数部発行され、我が国において一番売れている英和辞典であり、高校生を中心に大学、実業界その他各方面の一般読者に幅広く利用されている原告の代表的辞書である本件両辞典について、掲載されている例文のかなりのものが誤っている又は適切でないなどと指摘した上、本件両辞典が欠陥辞書であり使い物にならず、原告や本件両辞典を編纂した英語学者、英文校閲者は無能であるなどと批判するものである。このように、本書は、いわば国民的辞書といっても過言ではない本件両辞典につき、その内容の過誤、不適切等を批判するものであり、近時において国民の英語学習に対する関心が極めて高いことが公知の事実であることも併せ考えると、その内容は公共の利害に関する事項又は一般公衆の関心事に係るものであることは明らかである。

三  目的の公益性

《証拠省略》によれば、被告副島は、大学卒業後外資系の銀行に三年半勤務し、その後著述業と予備校講師をしており、本書の執筆前に、「入試英語ここまで(上・下)」別冊宝島五七号「道具としての英語・表現編」などの著書を著しているが、本書の共同執筆者であるゲルダーと日ごろ予備校の英作文の授業を共同で担当する中で、ゲルダーに添削された英作文を書いた受験生から、辞書に掲載されている例文に範をとって解答しているのに何故添削されるのかといった質問を頻繁に受け、検討してみると、むしろ辞書がおかしいという経験を少なからず有していたこと、そして、被告副島は、我が国の文科系知識人の中に国際的に通用する人物がほとんど存在しないのは、我が国の英語教育に重要な原因があり、特に英語教育の中心的立場を占める原告とそれを取り巻く学者の責任は大きいとの信念を平素から抱いており、我が国で最も良く用いられている英和辞典である本件両辞典の内容を批判することにより、より良い辞書が作られ、ひいては受験生の混乱の解消や我が国の知識人の英語水準の向上に役立つことを動機として、本書の執筆に取りかかったこと、本書は、本件両辞典の例文や編集方針を批判するにとどまらず、特に第四章を「日本英語教育の複雑怪奇な現状」と題し、我が国の英語教師が生きた英語を知らないことを批判する一方で、我が国に来日している英米人が行う英語教育批判には必ずしも賛成できず、日本人にとって英語を習得するのが極めて困難であることなどの自説を展開していること、被告会社は、我が国の英語教育の在り方を批判し、実効性のある英語学習の方法を提示することを内容とする別冊宝島「道具としての英語」シリーズを出版するなど、英語学習について建設的な意見を提示する出版も行っていることが認められる。以上の事実関係によれば、被告らの本書発行の目的は、専ら公益を図るものであったと認めて妨げはない。

四  本書の指摘等の内容

1  本書の指摘等が、事実と論評のいずれに係るものかによって、その適法要件が異なることは前示のとおりであるが、事実とは、客観的に真又は偽としての性格付けをして証拠により確定できる性質を有するものをいい、論評とは、これに当たらないものをいうと解すべきであり、この区別をするに当たっては、当該指摘等の文言、表現方法、表現全体の中で占める地位等に照らし、想定される読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきであって、一見論評に区分される指摘等も、その文言、表現方法、表現全体の中で占める地位等に照らし、事実を暗示するものと解するのが相当である場合には、その暗示される事実について真実性、相当性が検討されるべきである。

2  次に、本書の指摘等が具体的に事実と論評のいずれに当たるかを検討する前提として、例文の誤り等を指摘する部分が本件両辞典の例文を批判する基準についてみるに、本書の冒頭部分では内外の他の英語辞典との比較であるように読めるのに対し、個々の指摘部分では、現在の英語国民に通用するか、内外の英語辞書との比較、例文の意味内容に偏見があるか、単語の意味や文法的に見て適切か、例文が簡単すぎて意味が曖昧であるか、重要な単語の意味や例文が十分掲載されているかなどであるように読めることは前示のとおりであるが、本書冒頭部分と個々の指摘部分との関係は必ずしも明確ではなく、また、個々の指摘中には必ずしも基準を明示していないものもある。しかしながら、本書を読んだ一般の読者としては、本書冒頭部分と個々の指摘部分との関係については、主として個々の指摘における基準に従い、補充的に内外の他の英語辞典との比較を基準として批判されていると考えるのが普通であろうと思われる。

3  そこで、以下、個々の指摘等がいかなる基準に基づくものであるかにつき各整理番号ごとに検討した上、前示の判断枠組みに従い、事実の摘示に係る部分の真実性と論評部分の適法性を五項において判断し、次いで事実の摘示に係る部分の真実性の証明がされないものについて真実と信ずるにつき相当な理由があるかを六項において一括して判断することとする。

五  個々の指摘等の適法性

1  例文の誤り等を指摘する部分について

(整理番号A1)

This machine goes by electricity.(この機械は電気で動く)

《証拠省略》によれば、本書は、新英和中辞典に掲載されている右例文につき、「まちがいである。文章として意味をなしていない。この文は、どんな英語国民にも通じない。」(二一頁)などと記載していることが認められ、主として例文が現在の英語国民に通じるかという観点から批判するものである。ところで、辞書の例文が英語国民に通じないというのは、英語国民がその例文を読み又は聞いたとき、意味を全く理解しないか、辞書の訳文どおりの意味に理解しない趣旨であると解されるが、《証拠省略》によれば、ある英語国民がある例文の意味をどのように理解するかには個人差があることが認められ、ある例文がある英語国民に通じるか否かは、当該英語国民によって違ってくることが考えられる。しかしながら、ある例文が総体としての英語国民にどの程度通じるかは、例えば一〇〇人中五〇人に通じるなどというように定量的に測定可能なものであって、それ自体は客観的に真又は偽としての性格付けができ、訴訟において証拠により確定できる性質を有するものということができるから、事実に該当する。そして、本書の記載は、どんな英語国民にも通じないと断ずるものであって、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、右例文は総体としての英語国民のいわば一〇〇人中一〇〇人に通じないとする趣旨であると認められるから、主としてその趣旨の事実の摘示であるというべきである。

次に、このように本書の指摘が主として右例文が現在の英語国民に通じるかという観点から批判するものであっても、本書は補充的に内外の他の英語辞典との比較を基準として批判しているとみるべきことは前示のとおりである。ここでは、内外の英語辞典に、批判の対象とされた例文で使われている単語の語義と同一又は類似の語義が掲載されていないこと、例文の用法に関して批判の対象とされた例文と同一又は類似の例文が掲載されていないことなどが批判の前提となるが、これらはいずれも客観的に真又は偽としての性格付けができ、訴訟において証拠により確定できる性質を有するものということができるから、事実に該当する。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、本書出版後の平成元年一二月、新英和中辞典の編集委員であるDavid P. Dutcher(以下「ダッチャー」という。)及びStephen A. C. Boyd(以下「ボイド」という。)、ライトハウスの編集委員であるMary Elizabeth Althaus(以下「アルトハウス」という。)、ライトハウス第二版の編集顧問であるDwight L. Bolinger(以下「ボリンジャー」という。)及びRobert F. Ilson(以下「イルソン」という。)、原告の出版する新英英辞典に関与しているHugh E. Wilkinson(以下「ウィルキンソン」という。)の六名のネイティブ・スピーカーが本書の指摘に対して述べた意見を中心に、本書の指摘に対する原告の反論等をまとめ、全国の高校約五一〇〇校の英語教諭等に配付した「『欠陥英和辞典の研究』の分析」と題する小冊子の中で、ダッチャーが、英語のネイティブ・スピーカーなら誰でもthe machine goesはthe car goesと同様に容認できると言うだろう、と述べていること、被告会社が本書発行の翌年である平成二年六月に、原告の反論を前提とした被告副島とゲルダーによる再反論を内容として発行した別冊宝島一一三号「英語辞書大論争」では、被告副島自身、ひとまず右ダッチャーの見解を受け入れるとした上、右例文は英文としては極めて曖昧な文であるが、英語として存在することを否定できない、『機能する』『役割を果たす』『操作する』の意味のgoを、私が知らなかったことになる、などと述べていること、英米の辞書では、例えば、辞書編集に言語学の成果を取り入れつつ口語表現やアメリカ語法にも配慮した外国人の学習用の本格的辞書で、本書(一二頁)の中でも例文批判の基準として引用されているLongman Dictionary of Contemporary English(ロングマン現代英英辞典、以下「LDCE」という。)の第二版(以下、「LDCE2」のように右肩の数字をもって版数を示す。)には、goの八番目の語義として「(機械が)(正常に)動く」が掲載されており、用例として、This clock does't go.(この時計は動かない)が挙げられていること、外国人学習用辞典のパイオニアでありLDCEが出版されるまでは圧倒的な支持を受けていた辞書であるOxford Advanced Learner's Dictionary of Current English(オックスフォード現代英英辞典、以下「OALD」という。)第四版には、goの一一番目の語義として「(機械などが)機能を果たす、動く、作動する」が掲載されており、用例として、本書の批判するThis machine goes by electricity.(この機械は電気で動く)が挙げられていること、一九八七年に出版され、コンピュータで集めた大量のデータを本格的に活用した外国人学習者向けの辞書であるCollins COBUILD English Language Dictionary(コリンズ・コウビルド英語辞典、以下「COBUILD)」という。)には、goに関して、a machine is goingなどと言う場合、それが正常に作動しているかどうかを意味しているとの説明がされていることが認められる。

もっとも、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」中には、アルトハウスが、右例文は間違いではないが、読み物のみで使われるはずであり、通常の話し言葉又は書き言葉ではない旨述べていること、本書の出版後改訂された新英和中辞典第六版では、右例文が削除されていることが認められるが、アルトハウスの見解は、どんな英語国民にも通じないとする趣旨ではなく、また、新英和中辞典第六版で例文が削除された理由が例文として誤っていることであることを窺わせるに足りる証拠はない。

以上によれば、右例文は、どんな英語国民にも通じないとも、内外の英語辞典に同一又は類似の記載がないともいえず、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A2)

We went around to drop into the drugstore on our way home.(私たちは家へ帰る途中回り道をしてドラッグストアに寄ってきました)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、we went out of our way [the long way around] to drop by the drugstore on our way home.との訂正例文を挙げた上、「まちがいである。どんな英語国民に聞いてもいい。必ずそう言う。」(二二頁)「文の形は不格好だし、意味においても混乱している。それにいちばん問題なのはgo aroundの使い方が完全にまちがっていることである。」(四九頁)とし、go aroundは「動き回る」であって「回り道をする」の意味はなく、「どこかへ立ち寄る」という場合、パラシュートでも使わないかぎりdrop intoとはいわないなどと記載しているところ、本書の文脈からすれば、go around、 drop intoの意味についての批判も現在の英語国民に通じないことに帰着することが認められる。このように、本書は主として右例文がどんな英語国民にも通じないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民のいわば一〇〇人中一〇〇人に通じないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A1と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文についてアルトハウス、ボイドはOKとしながら、アルトハウスは、被告副島の指摘する理由ではなく、drop in(to)が「何気なく訪れる」ことを含意するため、ある人がドラッグストアーに行くために遠回りするなら、drop intoは適切というには程遠いという理由により、適切な文ではないとしていること、ボリンジャー、イルソン、ウィルキンソンの意見が分かれており、少し手直ししたほうがベターな例かもしれない旨記載されていること、他方、英米の辞書では、OALD4はgo roundの見出し語についてgo by a longer route than usualとの語義を示した上、The main road was flooded so we had to go round by narrow country lanes.(幹線道路に水があふれたので私たちは狭い田舎道を回って行くしかなかった)との例文を掲載していることと、またdrop intoの例文として、We dropped into a pub on a way.(私たちは途中でパブに寄った)を掲載していること、アメリカで日常よく使われるイディオムを収録した辞書であるBarron's Dictionary of American Idioms 2nd edition(バロン現代英語熟語辞典第二版、以下「Barron」という。)には、I dropped into the drugstore for some tooth paste and a magazine.(私は歯磨きと雑誌を買うためにドラッグストアーに寄った)との例文が掲載されていること、多くの英和辞典がgo aroundの語義として「回り道をする」を掲載していること、これに対し、前記「英語辞書大論争」には、被告副島がOALD4を出版するオックスフォード大学出版局英語教育部(以下「オックスフォード大学出版局」という。)、COBUILDを出版するコリンズ・サンズ・アンド・カンパニイ・リミテッド英語辞書部(以下「コリンズ」という。)の二つのイギリスの辞書会社に宛てて、本書で指摘した例文が非英語国民にとって明確な現代英語であるかという観点から適切であるかについて意見を求めたのに対する回答が、オックスフォード大学出版局はNOであり、コリンズはアメリカの用法でありイギリスの用法ではないとしていること、そして、本書の出版後改訂されたライトハウス第二版では、go aroundの見出し語について「回り道をする」の語義は残しつつ例文をWe went around to John's house after the game.(私たちは試合のあとジョンの家に寄った。)に差し替えていること、drop intoの見出し語について、初版で掲載されていた「~に立ち寄る」と語義及び例文を削除していることが認められる。もっとも、go aroundの例文の変更について、ライトハウスの編者である東京外国語大学名誉教授竹林滋(以下「竹林」という。)は、その報告書(以下「竹林報告書」という。)の中で、原告側の見解として、行数節約のため例文を短くした旨述べており、また、その供述の中で、ライトハウス第二版は初版を出版した翌月から改訂作業に入り、六年後に出版しているが、付け焼き刃的に例文を差し替えることは時間的に困難である旨述べていることが認められるが、ライトハウス第二版が発行されたのは本書発行の一年近く後である平成二年一〇月であり、仮に竹林の述べるとおり例文選択の作業を六月か七月には終えなければならないとしても、本書で指摘された少数の例文について差し替えることはそれほど困難であるとは認められないこと、右差し替えはアルトハウスのgo aroundとdrop intoとの取り合わせが悪いとの意見を取り入れた形でされていることにかんがみれば、右例文の差し替えは、アルトハウスの意見を受けてされたものと窺うことができる。

以上によれば、右例文は、全体としてみると、どんな英語国民にも通じず、内外の辞書と比較して間違っているとまで断定することはできないが、少なくとも不適切ということができる。しかし、その理由は、被告副島の指摘するgo aroundに「回り道をする」の意味がなく、「どこかへ立ち寄る」という場合drop intoとはいわないことではなく、go aroundとdrop intoとの取り合わせが悪いことであると認められる。そして、ある例文の批判に当たり具体的根拠を示している場合には、これを示さない場合よりも社会的評価の低下の程度も高いのが通常であることにかんがみれば、真実性の証明の対象は批判の具体的根拠を基礎付ける事実であると解すべきであるから、被告副島の指摘の具体的根拠であるgo aroundに「回り道をする」の意味はなく、「どこかへ立ち寄る」という場合、パラシュートでも使わないかぎりdrop intoとはいわないなどとする部分が真実と認められなければならない。もっとも原告の提出した甲四の2には他の多くの例文の場合とは異なりgo round(又はaround)の見出し語を掲載している英米の辞書が前記OALD4一冊しか挙げられておらず、英米では句動詞として成熟していないことが窺われるのであるが、証人竹林滋によれば、英米の辞書では英語国民にとっていわば当たり前の熟語を見出し語として掲載しない傾向があることが認められるから、右の点を考慮しても、前示の証拠に照らし、本書の摘示する事実につき真実性の証明があったとは認めることができない。

(整理番号A3)

The yen goes only in Japan.(円は日本でしか通用しない)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、The yen is used only in Japan.との訂正例文を挙げた上、「英文として意味をなしていない。お金を主語にして使う文としては、このように使うことはできないのである。この例文が標準的な英文として英語圏で通用する可能性は残念ながらまったくない。完全な誤文である。」(四二頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として右例文がどんな英語国民にも通じないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民のいわば一〇〇人中一〇〇人に通じないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A1と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボリンジャーは、この例文が好きではないとした上、goは否定的な意味で使われるのが適切である旨述べ、A dollar won't go in Japan, you know.の例文を挙げていること、アルトハウスは、この例文は間違いではないが、普通に聞かれる英文ではないとし、語義は残して例文は削除することを提案する旨述べていること、これを受けて編集部は適例を探すとしていること、また、前記「英語辞書大論争」には、アメリカ出身で我が国の大学で教鞭をとるJohn Vincent Moen(以下「モーエン」という。)の意見として本書の指摘が正しい旨記載されていること、英語学者で他の英和辞典の編集も行っている明治大学教授堀内克明(以下「堀内」という。)の雑誌論文では、主語がthe yen(円という通貨単位)という抽象的なものではなく、小切手のように具体的にgoする(動き回る)ものでないと都合が悪い旨指摘していること、英会話学校教師と朝日新聞国際配信部職員のネイティブ・スピーカー六名を集めて本書の指摘を検討した週刊朝日の記事では、六人とも初めて聞く表現であるとしつつも、その許容性については意見が分かれたこと、夕刊フジの記事には、ネイティブ・スピーカーの大学教授が、右例文は全く英語を知らない人の表現である旨述べたとの記述があること、さらに、英米の辞書では、全二〇巻、五〇万語を収録し、文献に基づき語義などの変遷を跡付け最新の語句まで記述しており、世界の国語辞典の中でも最大・最良の書とされているThe Oxford English Dictionary 2nd edition(オックスフォード英語大辞典第二版、以下「OED2」という。)は、「(硬貨、紙幣が)流通する」の語義を記載し、Bank-notes, she surpposes, will go everywhere.(紙幣はどこでも通用するだろうと彼女は思っている)との例文を挙げていること、英国で従来最もよく利用されてきた標準的机上辞書であるThe Concise Oxford Dictionary 7nd edition(コンサイス・オックスフォード英英辞典第七版、以下「COD7」という。)は、「通用している」の語義を記載し、the gold sovereign went anywhere.(ソブリン金貨はどこでも通用した)との例文を挙げていること、アメリカの代表的な辞書出版社であるメリアム・ウェブスター社から出され、四五万以上の見出し項目を収めるWebster's Third New International Dictionary(メリアム・ウェブスター大辞典第三版、以下「Web3」という。)は、「額面価値で通る、通用する」の語義を記載し、traveler's checks go everywhere.(旅行者用小切手はどこでも通用する)との例文を挙げていること、これらの英米の辞書の例文の主語は、いずれもthe yenのように抽象的な通貨単位ではなく、紙幣、金貨、小切手のように具体的に動き回るものになっていること、そして、ライトハウス第二版では右例文が削除されていることが認められる。もっとも、竹林報告書では、この削除について、減行方針により使用頻度の低い語義の例文を割愛した旨説明していることが認められるが、前示の整理番号A2のように他にも本書及び「『欠陥英和辞典の研究』の分析」を受けて例文が差し替えられていることを窺わせるものがあること、アルトハウスの語義を残して例文は削除するとの提案に沿った改訂であることにかんがみれば、削除の理由は減行方針だけではないことが窺われる。

以上によれば、右例文は、英語国民が普通は話さないものであること、また、内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っていることが推認される。なお、本書の摘示する事実は、前示のとおり総体としての英語国民のいわば一〇〇人中一〇〇人に通じないという趣旨であって、厳密にこのこと自体真実であるとの証明があるとまではいえないが、本書は英語国民が普通は話さない例文であることを誇張的に表現したものであって、この程度の修辞は許されるものと解される。したがって、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であると認められ、右例文に関する指摘は適法であるということができる。

(整理番号A4)

I wish this pain would go.(この痛みがとれるといいのだが)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、I wish this pain would go away.との訂正例文を挙げた上、「この例文は、誤りである。この場合のgoはawayという副詞をつけてgo awayとしなければ『痛みが去る』という意味にならない。……英語国民は、通常このような使い方はしない。」(四三頁)などと記載していることが認められ、主として英語国民が通常右例文のような使い方をしないという観点から批判するものである。ところで、《証拠省略》によれば、ある英語国民がある例文に関してどのような使い方をするかには個人差があることが認められ、ある例文をある英語国民が使うか否かは、当該英語国民によって違ってくることが考えられる。しかしながら、総体としての英語国民がある例文をどの程度使うかは、例えば一〇〇人中五〇人が使うなどというように定量的に測定可能なものであって、それ自体は客観的に真又は偽としての性格付けができ、訴訟において証拠により確定できる性質を有するものということができるから、事実に該当する。そして、本書の記載は、英語国民は通常右例文のような使い方をしないというものであって、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、総体としての英語国民が通常右例文を使わないとする趣旨であると認められるから、その趣旨の事実の摘示であるというべきである。また、このような場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A1と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」で、右例文について、ウィルキンソンはgoはgo awayの意味として完壁によいとしているのに対し、ボリンジャーはOKとしつつも、イントネーションが表示できないので、I wish this pain would just go away.との例文を提案するとしており、ボイドはawayを加えたほうが多分より一般的である旨述べていること、また、前記モーエンの意見は本書の指摘が正しいとしているが、この意見はライトハウスの例文と本書の提示する訂正例文を比較の上での意見と見られ、本書の提示する例文の方がより適切であるとの趣旨であること、他方、英米の辞書では、例えば、OALD4は「なくなる、消える」の語義を挙げ、Has your headache gone yet?(頭痛はもうなくなりましたか)との例文を記載していること、その旧版であるOALD3では、I wish this pain would go (away).との例文を掲載していたこと、Web3は、「効果や影響がなくなる」の語義を挙げ、the pain has finally gone.(痛みがやっと消えた)との例文を記載していること、そして、ライトハウス第二版では、右例文はI wish this pain would go (away).と修正されたこと、右修正につき竹林はネイティブ・スピーカーの意見が多少分かれるところで、goでもいいし、go awayでもいいという趣旨でawayを括弧に入れた旨述べていることが認められる。

以上によれば、英語国民の感覚として右例文においてawayを加えた方がより一般的であり、ライトハウス第二版での修正が本書及び前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」をきっかけに行われたことが窺われるが、被告副島が指摘するように右例文が誤りで英語国民は通常このような使い方をしないとまで断定することはできず、英米の辞書でもawayなしの例文が見られることから、これとの比較で不適切であるともいえない。したがって、本書の指摘が真実であると認めることはできない。

(整理番号A5)

He succeeded in it at one go.(彼は一回でそれに成功した)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、He accomplished everything at one go.(彼は一回でなにもかもやりとげた)He did it all in one go.(彼は全部一回でやった)He succeeded in finishing [doing] it at one go.(彼は一回でそれに成功した)などの訂正例文を挙げた上、「典型的な悪文の例」とし、誤文とまでは言わないとしても、itの「意味不明の文」として「不適切な文」であり、「百歩譲って『この国の教育英語学上は立派な例文である。少なくともまちがいではない。』と主張するのを認めるとしても、こんな英文は、英語圏では例文として通用しないことぐらい分かるべきだろう。」(四五頁)と記載していることが認められる。このうち、英語圏で通用しないというのは、文脈に照らせば英語国民に通じないとの趣旨ではなく、不適切であることを若干誇張した表現とみるのが相当であるから、本書は主として右例文が描写の明確性を欠くため、例文として適切でないとして批判するものといえる。なお、本書は前記部分に続いて、succeed inの後には必ず…ing(動名詞)がくると批判しているが、この指摘は「念のために言い添えておく」としてされているものであるから、右例文を×とした根拠となっているとは読み取ることができず、批判の趣旨に関する前記の判断を左右するものではない。そして、右例文においてはitは代名詞であって何を指示しているかは例文だけからは明確ではないところであるが、この場合に例文が全体として意味不明であり不適切であるかは、客観的に真又は偽としての性格付けができず、訴訟において証拠により確定できない性質のものであるということができるから、論評に該当する。そして、本書の記載は人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては、右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、本書の記載は公正な論評として適法であると認められる。

(整理番号A6)

go yachting(ヨット乗りに行く)、go boating(ボートこぎに行く)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右各用例に△印を付し、go sailing(帆走に行く)との訂正用例を挙げた上、I go yachting in summer.(私は夏にヨットに乗りに行く)、I go boating in summer.(私は夏にボートをこぎに行く)、I go sailing in summer.(私は夏に帆走に行く)の例文を掲げ、「三つの例文はいずれもこのように使われ、かつ正しい。」としながら、「通常はgo sailingの方が好んで使われる。しかし、go yachting, go boatingの方はいささか時代遅れで、今日ではほとんど使われない。……イギリスでも、go yachtingはもうほとんど使われていない。いまだに階級社会であるイギリスでは、感情的なものも加わるので、労働者階級やふつうの人びとは絶対に使わないコトバだろう。」(五一~二頁)などと記載していることが認められ、批判の趣旨が若干不明確であるが、本書がその直後の部分で、「コトバや表現のなかには、辞書に載っているものであっても、社会的視野の変化に伴って用法がすっかり変化してしまったものがある。」とし、sailingが過去数十年の間に庶民的なスポーツになったことに伴い、金持ちや上流階級の人が使うyachtingは感情的に使われなくなった旨指摘していることにかんがみれば、本書の趣旨は現在の上流階級以外の人の間ではほとんど使われないとの観点から批判するものであるといえる。そして、この本書の記載が総体としての現在の上流階級以外の英語国民がほとんど使わないとする趣旨の事実の摘示であるとみるべきことは整理番号A4と同様である。なお、本書は、この例文に関する記載については、前示のとおり、明確に辞書に載っているものであっても使われないものがある旨指摘しているから、内外の英語辞書の例文との比較が批判の基準とされていないことは明らかである(もっとも、辞書の記載が英語国民がその用例を使うか否かの判別の手掛かりとなることを否定するものではない。)。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」で、go yachtingについて、ボリンジャーはOKとし、ボイドはOKとしつつも社会階級に関する考え方の変化について被告副島は一理ある旨述べていること、go boatingについて、ボリンジャー、イルソン、ボイドはOKとしていること、また、前記モーエンの意見は右例文が正しいとするものであること、さらに、内外の辞書では、音や意味の面で関連があって混同しやすい語の異同を解説したDictionary of Confusing Words and Meaning by Adrian Room(間違えやすい単語と意味の辞典)は、Sailingは普通は余暇のスポーツを意味し、Yachtingはヨットクラブと高度な帆走技術を伴い本質的にプロのもので特に競技に用いられ、Boatingは帆のあるなしにかかわらず一般に娯楽でボートを使用することをいう旨記載していること、被告副島が本書で推奨している大修館のジーニアス英和辞典は、go yatchingの用例について《英》(イギリス英語)との用法表示をした上、《米》(アメリカ英語)では通例go sailing、go boatingなどというとの注記をしていること、加えて、ライトハウス第二版ではgo sailingの訳が「帆走する」から「ヨット乗りに行く」に変更されているが、go yachting, go boatingはそのまま掲載されていることが認められる。

以上によれば、go yachtingの用例は、ヨットが庶民的なスポーツになり、go sailingの用例が出現したことに伴い、ヨットのプロがヨットクラブに属し高度な帆走技術をもって特に競技をする際に用いられる用例に変化しつつあることが窺われないわけではないが、このような意味の変化があったとしても、総体としての現在の上流階級以外の英語国民がgo yachtingをほとんど使わないとまでは認めるに足りる証拠はなく、また、go boatingの用例を現在の上流階級以外の英語国民がほとんど使わないとまで認めることもできない。したがって、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

なお、前示のとおりライトハウス第二版でgo sailingの訳が変更されており、この変更は被告副島が本書で「帆走に行く」の訳が日本語の話し言葉として使われないと指摘したことを受けたものであることが窺われるが、この点に関する被告副島の指摘は、本書の見出しにも挙げられていない付随的なものであり、この訳の変更をもって批判が正当であったとはいえない。

(整理番号A7)

I have never gone to Australia.(私はオーストラリアへ行ったことがない)

《証拠省略》によれば、ライトハウスは右例文を《米口語》と用法表示して掲載しているところ、本書は、この例文に×印を付し、I have never been to Australia.との訂正例文を挙げた上、「『アメリカ口語』ではない。きわめてインフォーマルな会話か、よっぽどの低学歴の人びと、あるいは日本人たちの間でしか通用しないものである。もしこれが作文で用いられたら、無教養な英語とレッテルを貼られる。」(五四頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主としてアメリカ英語において英語国民が右例文を通常の口語表現で使わないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民が通常の口語表現で使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アメリカ出身のボリンジャー、アルトハウスは、おかしいところは何もないなどとするのに対し、イギリス出身のイルソンは、goneよりbeenの方がベターであるとし、これを受けて原告の編集部は、アメリカ語法に経験を表すhave goneがあることはすでに常識であるとしていること、これに対し、アメリカ出身の前記モーエンの意見はbeenの方が望ましいとしているがgoneを誤りであるとか使わないとまではしていないこと、他方、内外の英語辞典では、英文法の科学的研究を取り入れ、教養ある人々の標準的なアメリカ英語を記述しているA Practical English Grammar(実用英文法)は、My grandfather has gone to Europe.の注釈として、祖父はまだヨーロッパにいるかもしれない、そうでないなら、話し手は祖父がこの時点現在においてヨーロッパに行った経験がある人であるというつもりで言っている旨記載していること、英語語法活用大辞典(大修館)には、「行ったことがある」という経験の意味は、イギリス英語ではhave beenが用いられるのに対し、アメリカ英語ではhave goneが用いられ、これは方言とか俗語ないし口語に限られるものではなくかなり広い範囲に認められる旨記載されていること、各社の英和辞典の多くはアメリカ語法又はアメリカの口語との用法表示の下にhave goneが経験を表す場合があることを記載していること、さらに、前記週刊朝日の記事には、いずれも大学卒業の学歴を有するネイティブ・スピーカー六人のうち、イギリス出身の一人が間違いではないがイギリス人は使わないとしているものの、アメリカ及びカナダ出身の五人はよく使うなどと述べた旨記載されていること、そして、ライトハウス第二版では例文はそのまま記載され用法表示が《米口語》から《米》に改められており、この変更について竹林報告書には、最近では更に一般的になっているので用法表示を改めた旨記載されていることが認められる。

もっとも、被告副島の「英語辞書大論争」の中には、LDCE2、OALD4が用法欄で「have been to+場所」は「経験」、「have gone to+場所」は「完了」を表すことを例文とともに示していること、日本人が「have gone to+場所」を「経験」のつもりで黒板に書いたのに対し、英語国民の教師から即座にgoneをbeenと訂正されるのを何度か経験した旨の記載があるが、LDCE2、OALD4はいずれもイギリスの出版社の辞書であり、イギリス英語中心の構成になっていることが窺われること、被告副島の教師としての経験は主としてゲルダーと組んで行った予備校での英作文の授業におけるものと思われるが、ゲルダーはイギリス生まれでカナダ、オーストラリアに在住経験があるにすぎないことからすれば、右事実をもってアメリカ英語において右例文を英語国民が通常の口語表現で使わないとまで認めることはできない。

以上によれば、アメリカ英語において英語国民が右例文を通常の口語表現で使わないとも、内外の英語辞典との比較で右例文の用法が誤っているともいえず、本書の摘示する事実が真実であるとは認められない。

(整理番号A8)

She is gaining in weight.(彼女は体重が増えてきている)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、She is gaining weight.との訂正例文を挙げた上、「このgainの使い方は誤りである。gainをこのように用いるとき、inはつねに省略されることになっている。……gainとin weightを同時に使うことができる唯一の例は、両者の間に体重が何キロかという数字が示される場合のみである。」(五六頁)などと記載していることが認められ、主として文法的に誤っているという観点から批判するものである。ところで、文法上誤っているか否かは通常英語学上の意見であって事実には当たらないが、本書の指摘についてみると、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が使わないこと及び内外の英語辞書に掲載されていないことを根拠に誤りであると指摘する趣旨であると認められ、これらが事実の摘示であることは整理番号A4の場合と同様である。もっとも、《証拠省略》によれば、被告副島は「英語辞書大論争」の中で、gainは他動詞起源の動詞であるから目的語として五キロなどの語がくるが、それが欠落すると直後にin weightがくるため、gain inという動詞句と思い込む英語国民も出てきておかしくない旨述べていることが認められ、これを前提とすると、被告副島の意図としては、英語国民が使うか否かにかかわらず、英文法学上の意見として本書の指摘をしているようにも読めるが、本書にこのような事情を読み取り得る記載がない以上、右認定を左右するものではない。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、ボリンジャーとボイドは問題なしとしたこと、アルトハウスのコメントとして、She is gaining weight.は確かにより自然であるが、教養あるイギリス人女性に意見を求めたところ、この例文で何らおかしくないとのことであった旨記載していること、これに対し、前記モーエンの意見は本書の提示する訂正例文がより適切であるとする趣旨のものであること、前記週刊朝日の記事では、六人のネイティブ・スピーカーのうち三人がこれはまずいとしているのに対し、残りの三人は間違いとまではいえないとしていること、また、英米の辞書では、We b3は自動詞の例文としてthe child gained in weight.(その子は体重が増えた)を挙げていること、OALD4はgain inをphrasal verd(句動詞)とし、gain in beauty, height, strength, weight, etc,(美しさ、身長、強さ、体重などが増す)との例文を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では、gainの他動詞の語義「増す」の例文に新たに本書で被告副島が訂正例文として挙げたShe is gaining weight,が加えられ、自動詞の箇所に挙げられていた冒頭例文は削除され語義のみが残されていること、この変更について竹林報告書及び証人竹林滋の供述中には、減行方針のため、使用頻度の低い自動詞の例文は削除した旨述べる部分があること、しかし、減行方針だけでは削除された例文と全く同一の意味の他動詞の例文が加えられたことの説明がつかず、右変更は本書及び前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」のアルトハウスの意見を受けてされたものと窺われることが認められる。

以上によれば、右例文よりShe is gaining weight.の方が自然であり、より適切な例文であるとはいえるが、英語国民が使わないこと及び内外の英語辞書に掲載されていないとの観点から右例文が誤っているとまでは断定できず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A9)

Does your watch gain?(あなたの時計は進みますか)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、Does your watch gain time?(あなたの時計は進みますか)By how much does your watch gain?(あなたの時計はどれくらい進みますか)My watch gains 3 minutes a day?(私の時計は一日に三分進みます)などの訂正例文を挙げた上、「あまり良い英文ではないから、まねをして使わないほうがいい。このgainという動詞が他動詞であるならば、その動詞だけでは使えない。そのあとに必ず目的語がくる。……ただし、イギリス人は、日常英語でなら冒頭の研究社の不完全例文のような使い方をすることがある」(五八頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は右例文が主として文法的に不完全であるという観点から批判するものであるが、本書の指摘に関しては、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、イギリス人の日常会話以外では英語国民はあまり使わないこと及び内外の英語辞書に掲載されていないことを根拠に誤りであるとの事実を摘示する趣旨であると認められることは整理番号A8の場合と同様である。なお、《証拠省略》によれば、被告副島は「英語辞書大論争」の中で、gainは本来他動詞として使うので、右例文のように自動詞として単独で使った文は不自然である旨述べていることが認められ、これを前提とすると、被告副島の意図としては、英語国民が使うか否かにかかわらず、英文法学上の意見として本書の指摘をしているように読めないでもないが、本書にこのような事情を読み取り得る記載がない以上、右認定を左右するものではない。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、イギリス出身のボイドとウィルキンソンもこれで正しいなどとするのに対し、アメリカ出身のアルトハウスは間違いではないがtimeを伴った他動詞での用法がたぶんより一般的であろうとしていること、また、前記モーエンの意見は本書の提示する訂正例文がより適切であるとする趣旨のものであること、他方、英米の辞書では、OALD4は、「自動詞又は他動詞」の用法表示の下に、My watch gains (by) several minutes a day.(私の時計は一日に数分ずつ進む。)の例文を挙げ、We b3は、自動詞の例文として~s by an hour a day.(一日に一時間進む)を挙げていること、COBUILDは、動詞を単独で又は目的語を伴って使うとの用法表示をした上、My watch gains about 10 minutes every day.(私の時計は毎日一〇分進む)と他動詞の例文を挙げていること、LDCE2は、「自動詞又は他動詞」との用法表示をしてMy watch is gaining five minutes a week.(私の時計は一週間に五分進む)と他動詞の例文を挙げ、clockの用法欄にはIf it gets faster every day, it gains (time).(時計が毎日速く進むときit gains (time)という)と記載していること、他方、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する質問に対し、オックスフォード出版局が右例文をOKとしており、コリンズも適切であるとしていること、我が国の英和辞典でも、例えば、ジーニアス英和辞典はgain in weight(目方が増える)の用例を挙げていること、そして、ライトハウス第二版でも右例文に変更はないことが認められる。

以上によれば、イギリス人の日常会話以外で英語国民がgainの自動詞としての用法をあまり使わず、また、内外の英語辞書に掲載されていないことを根拠に、右例文が不適切であるとまで断定することはできないといわざるを得ない。したがって、本書の摘示する事実は真実と認めることはできない。

(整理番号A10)

the gay voices of children(子供たちの楽しげな声),gay laughter(陽気な笑い),lead a gay life(放蕩生活をする)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されているこれらの用例に×印を付した上、「一応すべてきちんとした表現ではあるが、しかし今日ではもう使われていない。というのは、……いまやgayという語は、同性愛者(ホモセクシャル)という意味で広く使われるようになったのである。……この辞書の利用者は、将来この単語を実際に英語国民に向かって使う段になって、思い切り恥をかく」(六〇頁)などと記載している。ところで、ライトハウスの利用者が将来この単語を実際に英語国民に向かって使う段になって思い切り恥をかくとの記載は、ライトハウスがgayの用法について利用者が恥をかかないですむに足りる適切な記述をしていないという事実を暗示するものということができる。また、本書の右用例に関する主たる批判である今日の英語国民が右用例を使わないとの指摘が、総体としての今日の英語国民が右用例を使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で用例が不適切であるという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、ライトハウスはgayの項目で、一番目の語義として「陽気な」を掲載しthe gay voices of children(子供たちの楽しげな声)、gay laughter(陽気な笑い)を挙げた上、「語法」として「3の意味にもよく用いられるので注意が必要」とし、3で《口語》の用法表示の下に「(男の)同性愛の」の語義を掲載し、四番目の語義として「浮気の」を掲載しlead a gay life(放蕩生活をする)を挙げていること、また、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、ボイドは三例ともOKとしているのに対し、イルソンは三つとも古い用例としては正しいのだが、三番目の例文は特にホモセクシャルの意味を強く示唆しているとしていること、ウィルキンソンはgayという言葉はホモセクシャルの意味によって減殺されてしまっており、現在ではmerryを使うが、歴史的にはこれらの例文は正しいとしていること、また、前記モーエンの意見では、間違いではないがgayの語は今日ではホモセクシャルを連想するので避けられるとされていること、前記週刊朝日の記事では、六人のネイティブ・スピーカーの意見が分かれていること、さらに、内外の英語辞典では、一九七八年刊行のLDCE1は、gayの第一語義としてcheerful, merry, happy、第二語義としてbright or attractive、第三語義としてnot serious(特にthe gay lifeの句で)、第四語義としてホモセクシャルを掲載していたのに対し、その改訂版で一九八七年刊行のLDCE2は、gay第一語義としてホモセクシャル、第二語義としてbright of attractive、第三語義としてcheerful, happyを掲げ、「not serious(特にthe gay lifeの句で)」の語義は削除されていること、一九八九年刊行のOALD4は、第一語義として「楽しげな、快活な、陽気な」を掲げ、gay laughter(陽気な笑い)の用例を挙げており、ホモセクシャルの語義は三番目に掲載していること、一九八七年刊行のCOBUILDは、第一語義としてホモセクシャル、第二語義として、やや時代遅れの英語と注記した上「一緒にいて元気で楽しい」などを掲載していること、我が国の英和辞典のうち証拠に現れているものに限ってはすべて「陽気な、快活な」を第一語義として掲載していること、そして、ライトハウス第二版では、第一語義が「同性愛の」、第三語義が「陽気な」となり、第一版と比べて両者が入れ代わったこと、第一版の第四語義であった「浮気の」及びその用例lead a gay lifeは削除されたこと、第二語義の「はでな」の後に「語法」として「現在では1(注・同性愛の)の意味が最も普通なので注意が必要(ボリンジャー、イルソン)」と記載していること、この変更について、竹林報告書では、LDCE2での語義順の変化にならったもので、例文削除は使用頻度、減行の関係から行った旨記載していること、しかし、右変更は結果として本書及び前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」に沿ったものとなっていることが認められる。

以上によれば、今日の英語国民が右用例をほとんど使わないこと、英米の英語辞書も最近刊行されたものの主流は「同性愛の」を第一語義とするようになってきており、単語の意味の変化が見られることが認められ、本書の指摘には正しい面もある。しかし、ライトハウスは語法の注意を記載しており、注意深い読者なら「恥をかく」ことはないものと考えられ、gayの用法について利用者が恥をかかないですむに足りる適切な記述をしていないとの本書が暗示する事実が真実であるとは認められない。したがって、本書の右例文に関する摘示事実が全体にわたって真実であるとはいえない。

(整理番号A11)

Can you get this poem by heart?(あなたはこの詩をそらで覚えられますか)

《証拠省略》によれば、ライトハウスはgetの七番目の語義として「~がわかる(understand)」、「覚える(learn)」などを掲載し、右例文を挙げているところ、本書は、右例文に×印を付し、Can you learn this poem by heart?(あなたはこの詩をそらんじるぐらいに覚えることができますか)との訂正例文を挙げた上、「この文は、learn『覚える』とunderstand『理解する』の用法を混同している。」とし、getにunderstandの意味はあるが、「記憶する」という意味でのlearnの意味は通常ない旨記載していること(六三頁)が認められる。このように、本書は主として右例文に使用している単語の意味が誤っているとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民に通常通じないこと及び内外の英語辞書に掲載されてないことを根拠に誤りであることを指摘する趣旨であって、これらが事実の摘示であることは整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、他の例文とは異なりネイティブ・スピーカーの学者たちのコメントを記載していないこと、堀内の前記雑誌論文では、「気軽なくだけた(ぞんざいな)言い方ではlearn by heart のlearnがgetになり得るが、典型ではないので、たぶん学習英和辞典には不要だろう。」としていること、前記週刊朝日の記事では、六人のネイティブ・スピーカー全員が「聞いたことがない。learn~by heartの間違い。」などと述べた旨記載されていること、また、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する質問に対し、オックスフォード出版局は右例文の適切性について疑わしいとしており、コリンズはアメリカ用法であり、イギリス用法ではないと思うとしていること、前記モーエンの意見では、本書の訂正例文の方がより適切であるとしていること、これに対し、英米の辞書では、Web3は、~was told to get the poem by heart.(その詩を暗記するように言われた)との例文を挙げていること、一八九八年に初版発行という伝統があり、定期的に改訂して各時代の言葉の動きを敏感に反映し、膨大なデータに基づいて記述されたアメリカの代表的な辞書で、本書(一二頁)の中でも例文批判の基準として引用されているWebster's Ninth New Collegiate Dictionary(メリアム・ウェブスター・ニュー・カレッジ英英辞典、以下「WNC9」という。)は、「記憶する」の語義とともにgot the verse by heart(その詩を暗記した)を挙げていること、ジーニアス英和辞典はheartの項目でget [learn, know] it by~(それを(理解して)暗記する)の用例を挙げていること、ライトハウスの編集委員の一人である東信行は、原告の発行する時事英語研究の中で、右例文を比較的新しい用法とし、前記のWNC9を挙げメリアム・ウェブスター社の記述の正確さには定評があるとしつつ、新収の語句は多くの人の使用するところとなっていないのが普通であろうなどと記載していること、そして、ライトハウス第二版では右例文が削除されており、竹林報告書の中には、これについてCOD7で二番目の語義の例文にget by heartがあったが、その改訂版で一九九〇年刊行のCOD8では二二番目の語義に落ちており、減行方針に基づき使用頻度の低い語義の例文を削除した旨記載されていること、しかし、ライトハウス第二版の減行作業は平成二年六月ころには終わっており、その後は行に影響する改訂はできなくなるところ、COD8が発売されたのは一九九〇年(平成二年)七月五日であって、COD8の改訂内容が実際に取り入れられた可能性はないことが認められる。

以上によれば、英語国民は右例文を通常使わないこと、内外の英語辞典には右例文の類似の例文が掲載されているものもあるが、それらは少数派であることが認められる。したがって、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であると認められ、右例文に関する指摘は適法であるということができる。

(整理番号A12)

Have you got through with your task?(仕事は済みましたか)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、Have you got through your job [work] jet?との訂正例文を挙げた上、第一に、「withは省略されるのがまず基本である」こと、第二に、taskは「強制された、又は延々と続くあまり楽しくない仕事」というニュアンスがあるから適切ではなくwork又はjobを使うべきこと(六七頁)を指摘している。このように、本書は主として右例文が文法的に又は単語の意味、用法として誤っているとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が通常使わないこと及び内外の英語辞書にあまり掲載されていないことを根拠に誤りであることを指摘する趣旨であると認められ、これらが事実の摘示であることは整理番号A2、8の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、アルトハウス、ボイドはOKとし、ボイドは本書に「withは省略されるのが基本」とあるのはまったくもってばかげており、get through a task とget through with a taskは決して同じではなく、taskは「(必ずしも喜ばしくない)義務としての仕事」という意味合いがあるから、この例文の場合、taskという語の選択が特に適切であることは、少なくとも論拠のあることである旨述べていること、また、前記モーエンの意見では、ライトハウスの例文も本書の訂正例文も正しいが、後者の方がよりしばしば用いられるとされていること、さらに、英米の辞書では、OALD4はget through with~の見出しにおいて「(a job, task, etcを)終える、仕上げる」の語義を示し、As soon as I get through with my work, I'll join you.(仕事を終え次第、うかがいます)との例文を挙げていること、LDCE2は、get throughの見出しにおいて、自動詞でwithが付くとの用法表示をした上、「終える」の語義を示し、When you get through (with your work), let's go out.(あなたが(仕事が)終わったら、出掛けましょう)との例文を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では右例文のtaskがworkに変更されていること、竹林はこの変更の理由について、taskは二〇世紀に入ってあまり使われなくなってきて、workやjobの方が普通になってきたからであって、本書の指摘はニュアンスが違う旨述べていることが認められる。

以上によれば、本書のtaskに関する指摘は結論において正しかったことになるが、get throughの後に目的語をとる場合withが付き得ることは英米の辞書の示すところであり、withが省略されるのが基本であるとまでは認められず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A13)

The stars are glistening in the sky.(星が空にきらきら輝いている)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、His face glistened with sweat.(彼の顔には汗が光っていた)との訂正例文を挙げた上、「何かがglistenしているというのは、物体の表面が濡れているか、あるいは『油っぽいためてかてかと光っている』ことをいう。……イギリス英語でも、冒頭のglistenの例文は完全にまちがいである。」(七二頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として右例文に用いている単語の意味、用法が誤っているとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が通常使わないこと及び内外の英語辞書にあまり掲載されていないことを根拠に誤りであることを指摘する趣旨であると認められ、これらが事実の摘示であることは整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、ボリンジャーはOKとしつつ、The dew was glistening on the flowers.(露が花の上できらきら輝いていた)やThe stars were glittering in the sky.(星が空にきらきら輝いていた)の方がよりよいとしていること、イルソンは、私はglisteningという語は湿り気を伴うものだと思うので、glitteringの方がよりよいが、イギリス英語を話す若い二人のインフォーマントはglisteningでもいいと言った旨述べていること、これを受けて編集部で「ボリンジャー氏のThe dewあたりが好例か」としていること、また、前記堀内克明の雑誌論文では、「改めたほうがよい例」として、glistenは濡れたものが光ることをさすのが一般的だから、典型例のThe dew(露)などを主語にするとよいとし、もちろん星が濡れたように光って見えればglistenも使えるのだがそれは文学的表現に近いと指摘していること、さらに、英米の辞書では、一九世紀末アメリカを代表する英語辞典であるThe Century Dictionary, An Encyclopedic Lexicon of the English Language(センチュリー百科英語辞典)は、the glistening star(きらめく星)の用例を挙げていること、他の例文については原告は複数の辞書を証拠に挙げているがここでは右の一つのみしか挙げていないこと、そして、ライトハウス第二版では、初版の語義が単に「きらきら輝く」とされていたのを「(濡れたものなどが)きらきら光る」と改め、例文は削除されたこと、右変更について、竹林報告書には右例文は間違いではないが、使用頻度が少なくなっているとの判断から語義だけ残し例文を削除した旨記載されており、また、竹林は昔は右例文を使っていたがglistenの語義が変わってきたので例文も変えざるを得なくなった旨述べていることが認められる。

以上によれば、glistenは「濡れてきらきら光る」というニュアンスの言葉であって、英語国民は現在では通常「星が光る」という場合には使わないこと、英米の辞書でも一部古いものにglistenの用例として「星が光る」を載せているものもあるが、一般には「星が光る」の用例は掲載していないことが認められ、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であり、適法であるということができる。

(整理番号A14)

We had a miserable girlhood during the war.(戦時中の私たちの娘時代はみじめなものでした)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、We had a miserable childhood during the war.との訂正例文を挙げた上、「girlhood(少女時代)という語はあることはあるのだが、それをここでこのように使うのは不適切である。childhood(子供の頃)の方がより一般的に用いられる。そして、girlhoodのようなマイナーな語はすでに時代遅れになってしまっていることを強調すべきなのである。」とし、ライトハウスはgirlhoodに七行三例文を費やしているのに、childhoodには六行三例文を費やしているなど、girlhoodに類似した単語にライトハウスが何行使っているかを指摘して「……この矛盾は、他の辞書と比較してみると、もっとはっきりする。イギリス英語でもgirlhood, boyhoodはもう使われていない。」(七三頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は右例文が時代遅れで英語国民があまり使わないこと、また、他の英語辞典との比較からもライトハウスのgirlhoodの扱いが大きすぎることを批判するものであるが、前者は総体としての現在の英語国民が通常右例文を使わないとする趣旨であると認められるから、その趣旨の事実の摘示であるというべきことは、整理番号A4と同様であり、また、後者は他の英語辞典よりもライトハウスの方がgirlhoodについて多くの行数を割いているという事実を前提とした摘示であるということができる。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、アルトハウス、ボイドはOKとし、ボイドは「しかじ、childhoodの方がより普通かもしれない。彼は項目の記載配分量について問題としている点で一理あるが、イギリス英語でgirlhood、boyhoodはもう使われていないというのは、ばかげた考えである。」としていること、ウィルキンソンは確かにchildhoodの方が自然に感じられるが、girlhood, boyhoodがもう使われていないというわけではない旨述べていること、また、英米の辞書では、COBUILDは、The sisters had both been sponsored in their girlhood by Irving and Ellen Terry.(その姉妹は少女期に二人ともアービングとエレン・テリー夫妻から養育費を受けていた)との例文を挙げていること、さらに、被告副島自身「英語辞書大論争」の中で、本書が「イギリス英語でもgirlhood, boyhoodはもう使われていない。」とした部分は断定的すぎて誤りであったとしていること、そして、ライトハウス第二版では、初版で付されていた*印(重要語)が削除されており、また、右例文も削除され、関連語としてmanhood, womanhood, childhood, boyhoodを新たに挙げていることが認められる。

以上によれば、girlhoodの使用頻度が減少してきていること、ライトハウス第二版は本書の指摘に沿った改訂をしていることが認められるものの、本書の摘示する前記事実自体はこれを真実と認めるに足りる証拠がない。

(整理番号A15)

A man was standing in the gloom.(暗がりに男が立っていた)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、A man was standing in the dark gloom of the cave.(洞穴のじめじめした暗がりの中に男が立っていた)との訂正例文を挙げた上、「この文も描写の明確さを欠いており、gloomをどのように使うかについて、これではほとんどの読者は理解できないであろう。……ちなみに、冒頭の例文をイギリス英語では必ずしもまちがいとはしない。」(七五頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は右例文が描写の明確さを欠いている点で意味が取りにくく、不適切であるとして批判するものであるが、例文が意味がとりにくく、不適切であるか否かが、論評に該当することは、整理番号A5と同様である。

そこで、本書の記載が公正な論評に当たるかについて検討するに、右記載部分は人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては、右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、本書の記載は公正な論評として適法であると認められる。

なお、付言するに、《証拠省略》によれば、前記モーエンの意見ではライトハウスの例文も本書の訂正例文も正しいがあまり使われないとされており、ライトハウス第二版において、右例文は削除されていることが認められる。

(整理番号A16)

He is a grave man.(彼は威厳のある人だ)grave news(重大なニュース)

《証拠省略》によれば、本書はライトハウスに掲載されている右用例に関して、「研究社のgraveの取扱いは簡単すぎて、例文として示されているものもあまり良い文ではない。」などとし、ジーニアス英和辞典のa grave humorless man(くそまじめな人)、a patient in a grave condition(重態の患者)の用例を掲げ、「この差が歴然と示すとおり、『ライトハウス』の例文は不完全である。」(七八頁)としていることが認められる。このように、本書は主として重要な単語の用例が十分載っていないとして批判するものであって、本書の載せるべきであるとする単語の用例が載っているか否かは事実に該当するが、それで十分か否かは論評に該当する。そして、本書が載せるべきであるとする用例が何であるかは必ずしも明確ではないが、ジーニアス英和辞典との比較から推測するに、a grave man, grave newsのようにgraveが使われる状況を明らかにする語が一つではなく、更に何らかの語句を加えた用例を載せるべきであるとしていることが窺われる。

そこで、まず右事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、ライトハウスは、右用例の他にgraveに関してa grave mistake(重大な間違い)、She looked grave.(彼女はまじめな顔をした)を挙げていることが認められ、本書がこれを記載していないことは、読者を誤解させるおそれがあり、論評の前提として必ずしも適切ではないが、これらの用例はgraveが使われる状況を明らかにする語がmistake, lookedのように基本的に一語であって、本書が載せるべきであると主張する用例であるとはいえない。したがって、本書の指摘する事実は真実であるというべきである。

次に、本書の記載が公正な論評に当たるかについて検討するに、本書の右に摘示した部分に関しては人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては、右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、本書の記載は公正な論評として適法であると認められる。

付言するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、OKとしながら、「beteerな例に変える。著者の思いやりのあるコメントに感謝。」と記載し、ライトハウス第二版では、a grave illness(重病)、The patient's condition is grave.(患者の容態は非常に悪い)a grave voice(重々しい声)の三つの用例を加えていることが認められる。

(整理番号A17)

This story grips readers.(この話は読者の心を引き付ける)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付して、This exciting story grips the attention of readers.(この面白い話は読者の注意を引く)、This is such a gripping story, I can't put it down.(これはとても心を引きつける話だ、けなすことなんてできないよ)との訂正例文を挙げた上、「この文もgripという語の意味を表す用例として充分でなく、文意のあれこれは別としても、とにかく変な文である。」(七九頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として右例文を、第一に例文として意味が取りにくく単語の意味を理解させるに充分でないこと、第二に変な例文であることを根拠に批判するものである。このうち前者は、客観的に真又は偽としての性格付けができず、訴訟において証拠により確定できない性質のものであるということができるから、論評に該当する。また後者は、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、本書の文脈に照らし、英語国民が通常使わないこと及び内外の他の英語辞典との比較から不自然であることを指摘する趣旨であると認められ、これが事実の摘示であることは整理番号A4の場合と同様である。

そこで、まず後者の各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、アルトハウス、ボリンジャー、ボイド、イルソン、ウィルキンソンがいずれも全く問題ないとしていること、また、前記モーエンの意見ではライトハウスの例文も本書の訂正例文も正しいとされていること、さらに、英米の辞書では、OALD4が、an audience gripped by a play(芝居に引きつけられた観客)の用例を挙げていることをはじめとして「物が人を引きつける」の意味でgripを用いていること、そして、ライトハウス第二版では、例文がThis story really grips the reader.と変更されたが、変更後の例文も文の構造自体は変化がないことが認められる。

以上によれば、右例文を英語国民が通常使わないとも内外の他の英語辞典との比較から不自然であるともいうことができず、本書の摘示する事実は真実であると認めることができない。

(整理番号A18)

an old Irish air(古いアイルランドの歌)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付して、an old Irish songとの訂正例文を挙げた上、「この例文はイギリスの非常に古い英語のなかからとってきたものであろう。中世英語(ME)である。……この例文におけるairの意味そのものが不明であるし、またこのように使うのは、現在の英語国民においてはきわめて稀である。……こんな文は辞書に載せることそのものが不適当である。」(八八頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として右例文が古い英語で現在の英語国民が使うのは極めて稀であるとして批判するものであって、この本書の記載が現在の英語国民が極めて稀にしか使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウスはairが不適切な言葉であるというのは全く馬鹿げており、現在出版されている歌の本であってもairという語は使われているとしていること、ボリンジャーはこれがどうして問題にすべきことなのか想像できないとしていること、ウィルキンソンは「節」を意味するairの実例を説明しようとするなら、an old Irish airは大変良い例であって、The Londonderry Air(ロンドンデリーの歌、ダニーボーイ)は非常に有名な歌であると述べていること、また、お茶の水女子大学名誉教授木原研三の調査によると、WESTのService Listではairの使用例総数のうちtune(曲)の例は三パーセントとなっていること、竹林はairは古めかしいものの日本語の追分節の「節」のように使われているとしていること、前記モーエンの意見ではairはやや古風であるとされていること、他方、内外の英語辞典では、LDCE2及びCOBUILDは、特に古い用法であるとの注意の記載もなく「旋律」などの語義を載せているのに対し、OALD3はold use(古い用法)との表示がされていること、ジーニアス英和辞典も古語の用法表示をしていること、加えて、前記「英語辞書大論争」において、被告副島はアルトハウスの前記見解を引用した上「私の誤りだと認める。」としていること、そして、ライトハウス第二版では、初版で三番目の語義であった「旋律」が、四番目に繰り下がり、「古語」との用法表示が付加され、例文もThe Londonderry Air(ロンドンデリーの歌)に変更されたこと、竹林はこの変更についてより具体的なものにしたとしていることが認められる。

以上によれば、airを旋律の意味で用いるのは、日本語の「節」に相当するやや古めかしい用法であるが、現在も英語国民は使用していることが認められ、また、最近の内外の英語辞典も古い用例とするかについて立場が分かれていて、これとの比較でライトハウスの記載が不適切であるともいえず、結局、本書の摘示する事実を真実であると認めるに足りる証拠はないものといわなければならない。

(整理番号A19)

They were anxious lest it (should) rain.(彼らは雨が降りはしないかと心配だった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付して、They were anxious in case it rained.との訂正例文を挙げた上、「冒頭の例文lest~should『~するといけないので』の使い方は間違っている。これは典型的な日本人英語に他ならない。……あるいは、古くさい英語で、現在はもう使われなくなったのかもしれない。」(九〇頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として右例文を現在の英語国民が使わなくなったとして批判するものであって、この本書の記載が右例文を現在の英語国民が使わないかも知れないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドはOKとしているのに対し、ウィルキンソンはlestには「古語、文語」の表示が必要であることに賛成であるが、右例文は一八世紀の英語の中でみることができると思われるから正しいとし、ただし、anxiousの実例としては適切でないとしていること、これを受けて原告編集部は、Longman社の文法書を引用した上、アメリカ英語ではイギリス英語以上に通用性は高く「古くさい英語で、現在ではもう使われなくなった」というものではないとしていること、生きた英語で構成されているとされるTIME誌上で一九八九年にlestを用いた例があるなど、最近でも使用例があること、これに対し、前記モーエンの意見は、lestはほとんど完全にイギリス英語の表現であり、やや古風であるとしていること、他方、英米の辞書では、OALD4は、「fear, be afraid, be anxiousなどの後に用いられる」との用法表示をして例文を示していること、LDCE2は、「fear(不安、心配)を表現する語句とともに」の用法表示をして例文を示していること、ただし、LDCE1では「格式語」とされていたのに対し、「格式語又は古語」とされていること、アメリカの代表的な辞書出版社メリアム・ウェブスター社から刊行された最新(一九八九年刊行)の英語語法辞典で、現代の用法を約一四〇〇万の引用文に基づき分析しているWebster's Dictionary of English Usage(メリアム・ウェブスター英語語法辞典、以下「Web. Eng. Usage」という。)は、anxious atという構文は我々のデータにもOEDにもないが、anxitous lestはある旨記載していること、そして、ライトハウス第二版では右例文は削除されたこと、この削除の理由について、竹林は行数の関係によるものでlestの用法が一般的でないことを理由とするものではないとしていること、実際、anxiousの項は第二版では初版にない囲み記事や後にくる前置詞の表示などの新たな工夫が盛り込まれており、行数を節約する必要性が特に高かったといえることが認められる。

以上によれば、ライトハウスの改訂が結果として本書の指摘を取り入れた形になっており、右例文の用法が格式張っていてやや古めかしいことは認められるが、特に書き言葉では実際の使用例もあるのであって、現在の英語国民が右例文を使わないとまではいえず、また、内外の辞書と比較して右例文が不適切ともいえず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A20)

He failed in the examination.(彼は試験に落ちた)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付して、He failed the examination.との訂正例文を挙げた上、「冒頭の例文はとんでもないまちがいと言うか、日本の英語教育者全体の頑迷さをよく反映している誤文である。現在では、世界中の英語圏でHe failed in the examination.とは言わない。」(九二頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として右例文を現在の英語国民が使わないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての現在の英語国民が使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文の項に関しては他と異なってネイティブ・スピーカーの意見が掲載されておらず、内外の英語辞典の引用により反論していること、しかし、ライトハウス第二版では右例文の後に記載されている「語法」「inのないほうが普通」の後に「ボリンジャー、イルソン」との表示をし、両名がinのない方が普通の用法であると認識していること、また、前記モーエンの意見は本書の訂正例文(inのないもの)の方が望ましいとしていること、他方、英米の辞書では、OALD3は、fail (in) an examination(試験に失敗する)との例文を挙げていること、Web. Eng. Usageは、failの他動詞用法は二〇世紀初めに現れ、一九四〇年代から五〇年代に広まったもので、対応する意味の自動詞用法と取って代わったわけではないが、今では他動詞用法の方が確立し、頻度も高い旨記載していること、我が国の英和辞典のいくつかには右例文と同じ例文も見られること、そして、ライトハウス第二版では右例文に変更はないことが認められる。

以上によれば、failは後にinのない他動詞としての用法の方が普通の用法であることは認められるが、inのある自動詞用法が総体としての現在の英語国民に使われないとも、また、内外の他の英語辞典との比較の上で誤っているとも認められず、本書の摘示する事実を真実であると認めることはできない。なお、本書のように他人の著作物を引用して批判する場合、当該著作物に引用したとおりの記載があることも真実性の証明の対象となると解され、真実性の証明があったというためには、当該著作物の記載内容について読者に誤った印象を与えない程度に正確に引用していることを要するというべきであるが、ライトハウスには右例文の後に「語法」として「inのないほうが普通」との表示がされているにもかかわらず、これを記載せずして不適切な例文とした本書は、この点においても真実性の証明がないものといわざるを得ない。

(整理番号A21)

His reputation was fouled by his deeds.(彼の名声はその行ないですっかりだめになった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに記載されている右例文に△印を付して、The action spoilt his reputation.との訂正例文を挙げた上、「この例文は、もう百年間かそれ以上、英語圏では使われていない表現である。もし、こんな変な英文を英語圏の国で使ったら、必ず笑われるだろう。」(九六頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として英語国民が右例文を一〇〇年以上も使っていないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民が最近では使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、イルソンがOKとしていること、これに対し、前記モーエンの意見は、ライトハウスの例文はほとんどシェークスピア風すなわち古語であるとしていること、他方、英米の辞書では、OALD3は、例文としてfoul one's name/reputation(人の名声/評判を汚す)を挙げていること、見出し項目三一万以上の大型実用辞典で語義の配列は使用頻度順にされているThe Random House Dictionary of the English Language, 2nd edition(ランダムハウス英英大辞典第二版、以下「RHD2」という。)は、foulの語義「汚す」の例文としてHis reputation had been fouled by unfounded accusations.(根拠のない言いがかりにより彼の名声は落ちていた)を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では初版の「(名誉などを)汚す」の語義及びその例文である右例文を削除していること、右削除に関して竹林は、被告副島の批判はオーバーであって、今でも使用頻度は減ってきているものの使われるとしていることが認められる。

以上によれば、右例文は現在では使用頻度が減っているが古めかしい用法としていまだ使用されていることが窺われ、総体としての英語国民が最近では使っておらず、また、内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているとまで認めることはできず、他に本書の摘示する事実を真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A22)

We must not fritter away our time on trifles.(私たちはつまらぬ事に時間をつぶしてはならない)

《証拠省略》によれば、本書は、前記整理番号A21の記載に引き続き、「この種のおかしな例文は、『ライトハウス』の他のところでもよく見かける。」などと記載した上、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、We must not waste any time on unimportant detail.との訂正例文を挙げていること(九六頁)が認められる。このように、本書は主として英語国民が右例文を近年使っていないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民が最近では使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、アルトハウス、ボリンジャー、イルソンはこれでよいとし、ウィルキンソンも右例文で悪いところはなく、現在でも使われているとし、ボイドも時代遅れではないし間違いでもないとしていること、これに対し、前記モーエンの意見は、ライトハウスの例文はやや古めかしいが正しいのに対し、本書の訂正例文はより現代的であるとしていること、他方、被告副島自身「英語辞書大論争」の中で、「このfritter awayという主にアメリカで使われる口語表現を私は知らなかった。私の誤りである。」として誤りを認めていること、また、英米の辞書でも、LDCE2、OALD4はいずれも「(時間や金)を浪費する」との語義を掲載し、右例文と類似の例文を挙げていること、ところが、ライトハウス第二版は右例文を削除していること、そして、竹林報告書はこの削除について、使用頻度が低いことから減行のために削除した旨述べていることが認められる。

以上によれば、右例文は現在でも用いられていることを認めることができるから、総体としての英語国民が最近では使っておらず、また、内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているとの本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A23)

His manner was fuel to the teacher's rage.(彼の態度が先生の怒りをいっそうかき立てた)

《証拠省略》によれば、本書は、前記整理番号A21の記載に引き続き、「この種のおかしな例文は、『ライトハウス』の他のところでもよく見かける。」と記載した上、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、His behavior infuriated the teacher.との訂正例文を挙げていること(九六頁)が認められる。このように、本書は主として英語国民が右例文を近年使っていないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民が最近では使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウス、ボリンジャーはOKとし、ウィルキンソンは、be fuel toはどちらかといえば文学的であるから、文学的な文脈で使ったほうがよりよいとしており、ボイドは、問題はfuel toにあるのではなくこの文にあるとし、simply/justなどとともに使われるのが典型的である旨述べていること、TIME誌などで最近の使用例があること、他方、英米の辞書では、OALD4、LDCE4、COBUILDはいずれもadd fuel to又はadd fuel to the flames(火に油を注ぐ)の表現を「慣用句」、「比喩的」などの用法表示の下に掲載し、例文を挙げていること、ところが、ライトハウス第二版では右例文は削除されていること、その理由について竹林報告書は、減行のために削除したとしていることが認められる。

以上によれば、右例文は比喩的でやや文学的な表現であることは窺われるが、総体としての英語国民が最近では使っておらず、また、内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているとは認めることができない。したがって、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号A24)

Old times rushed back upon me.(昔の日々が急に私の心に浮かんだ)

《証拠省略》によれば、本書は、前記整理番号A21の記載に引き続き、「この種のおかしな例文は、『ライトハウス』の他のところでもよく見かける。」と記載した上、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、I was flooded with memories of the past [the old days].との訂正例文を挙げていること(九六頁)が認められる。このように、本書は主として英語国民が右例文を近年使っていないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民が最近では使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウス、イルソンはOKとしていること、また、前記モーエンの意見では本書の訂正例文の方が適切であるとしていること、他方、英米の辞書では、We b3は、old times rushed back upon me……the remembrance of old services(昔の日々が急に私の心に浮かんだ――かつてのあの献身の思い出が)との例文を挙げていること、しかし、証拠として挙げられている辞書は右の一冊にとどまること、そして、ライトハウス第二版では、Old memories rushed back into my mind.(昔の思い出が急に私の心に浮かんだ)との例文に差し替えられたこと、右差し替えについて、竹林報告書は例文自体は英語圏で通用するが具体的で分かりやすい内容に変更したとしていることが認められる。

以上によれば、右例文はあまりよく用いられ表現ではないことは窺われるものの、総体としての英語国民が最近では使っておらず、また、内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているとは認めることができない。したがって、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号A25)

Unburden yourself of the truth.(真相を打ち明けて楽になりなさい)

《証拠省略》によれば、本書は、前記整理番号A21の記載に引き続き、「この種のおかしな例文は、『ライトハウス』の他のところでもよく見かける。」と記載した上、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、Relax and tell me the truth.との訂正例文を挙げていること(九六頁)が認められる。このように、本書は主として英語国民が右例文を近年使っていないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民が最近では使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ウィルキンソン、ボイドは本書の示す訂正例文に対する批判をしているが、右例文自体の許容性については触れていないこと、また、英米の辞書では、OALD4は、「格式的、比喩的」との用法表示の上、unburden oneself of a secret(秘密を打ち明ける)との例文を挙げていること、LDCE1、LDCE2は、She unburdened herself of her terrible secret.(彼女はみじめな秘密を打ち明けた)との例文を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では右例文の変更がないことが認められる。

以上によれば、右例文は、格式張った表現であることは窺われるものの、総体としての英語国民が右例文を最近では使わず、また、内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているとは、認めることができない。したがって、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号A26)

I'm much beholden to you for your kindness.(ご親切ありがとう存じます)

《証拠省略》によれば、本書は、前記整理番号A21の記載に引き続き、「この種のおかしな例文は、『ライトハウス』の他のところでもよく見かける。」と記載した上、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、I'm very grateful for your kindness.との訂正例文を挙げていること(九六頁)が認められる。このように、本書は主として英語国民が右例文を近年使っていないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民が最近では使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウス、ボイド、ボリンジャー、イルソンはOKとしていること、また、前記モーエンの意見ではライトハウスの例文は古めかしいとされていること、他方、英米の辞書では、COBUILDは、I am beholden to you, John, for Looking after us.(私たちの面倒をみていただいてありがたいと思っています、ジョン)との例文を挙げていること、OALD4は、「古語又は格式語」との用法表示の上でWe were much beholden to him for his kindness.(彼の親切は非常にありがたく思っていた)との例文を挙げていること、LDCE2は、I like to do things for myself and not feel beholden to anyone else.(私は独力で物事をするのが好きで、他の誰にも恩義を受けたくない)との例文を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では右例文の変更がないことが認められる。

以上によれば、右例文は、やや古めかしく格式張った表現であることは窺われるものの、総体としての英語国民が右例文を最近では使わず、また、内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているとまでは、認めることができない。したがって、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号A27)

The girl framed the figure of a dog from clay.(その少女は粘土から犬の形を造った)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、The girl modelled a dog from clay.との訂正例文を挙げた上、「このframeの使い方は、日本人にはよく分かるだろうが、英文としては誤りである。'Collins English Dictionary Second Edition 1986'『コリンズ英語辞典』には、現在では使われていない用法として、frameにshapeやform『形づくる』の意味がある、と解説してある。」(九九頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は右例文が現在の英語国民に使われておらず、英米の辞書にもその旨記載されているとして批判するものであって、いずれも事実の摘示であるとみうることは整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、本書の挙げるCollins English Dictionary Second Edition(以下「CED2」という。)には、frameの名詞の用法の一六番目の語義の欄で、「廃語」との用法表示をした上、shape, formとの語義を掲載していること(ただし、動詞については同様の用法表示はないことが窺われる。)、しかし、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウスは、私ならこの文ではframeを用いないが、これで悪いとは思わないとしていること、これに対し、ウィルキンソンは、frame from clayは確かに変であるとしていること、また、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する右例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード出版局、コリンズがともに不適切との回答をしてきたこと、前記モーエンの意見は、本書の訂正例文の方が望ましいとするものであること、他方、英米の辞書では、RHD2は、to frame a bust from marble.(大理石で胸像を造る)との例文を挙げていること、Web3は、frame figure out of clay(粘土である形を造る)との用例を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では、初版で第一語義であった「組み立てる、形作る」の語義とともに右例文は削除されていること、右削除について竹林報告書では、LDCE2がLDCE1に掲載されていたこの語義を削除するなど、使用頻度が少なくなったとの判断により削除したとしていることが認められる。

以上によれば、CED2がframeに現在では使われていない用法として、shapeやform『形づくる』の意味があると解説しているとの本書の指摘する事実が、真実であるといえるかは、名詞の用法と動詞の用法とで使われ方も異なることがあるので、必ずしも明らかでないが、右例文の用法は現在の英語国民にはあまり使われていないことが推認される。なお、本書は、前示のとおり右例文を誤りとしており、現在の英語国民に全く使われていないという趣旨にも読めるが、これは誇張的な表現であって、この程度の修辞は許されるものと解される。したがって、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であると認められ、右例文に係る指摘は適法であるということができる。

(整理番号A28)

I made the students free of my laboratory.(私は学生たちに私の実験室を自由に使わせた)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、I gave my students free use of my laboratory.との訂正例文を挙げた上、「私は、この例文を見たとき、一瞬何の意味だか分からなかった。……これでは英文にならない。とんでもない日本人英語である。意味が通じないどころか、文法的にも完全に間違っている。」(一〇〇頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は右例文が主として意味が通じず、文法的に間違っているとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民に通じないこと及び内外の英語辞典に掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A8の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、原告は、英米人から見ると本書の指摘に一理あると認めうるが、英米の辞書に同種の例文があることなどの理由から右例文が完全に間違いと断定することはできない旨主張しているところ、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ウィルキンソンは被告副島が間違っているとしているのに対し、ボリンジャー、イルソン、アルトハウス、ボイドは、あまりなじみのない表現であるとしていること、また、前記週刊朝日の記事では、六人のネイティブ・スピーカーがそろって「実験室で奴隷のようにこき使われていた学生がやっと解放された感じ」などと述べ、右の例文の訳とは全く違うイメージを思い浮かべた旨記載されていること、前記夕刊フジの記事では、ネイティブ・スピーカーの外国人が「耳で聞いただけでは、まったくわからない」としていること、他方、英米の辞書では、OALD4は、make~free of~の項目の例文として、He kindly made me free of his library for my research.(彼は親切なことに私の研究のために蔵書を自由に使わせてくれた)を挙げていること、ロングマン社が外国人学習者用に出した句動詞を扱う専門辞書で、現代の英語慣用表現をカバーしているLongman Dictoinary of Phrasal Verbs(ロングマン英語動詞句活用辞典、以下「LDPV」という。)は、make free ofの見出し項目で「格式的」との用法表示の上、「人に~に対する特権を与える」との語義を掲げ、例文として、I owe grateful thanks to my former university teacher, who made me free of his library of rare books so that I could write this report.(~私に彼の珍しい本の蔵書を自由に使わせてくれた~)を挙げていること、また、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する右例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード出版局は少し堅苦しいが受け入れられるとし、コリンズはかなり堅苦しいが適切であるとの回答をしてきたこと、そして、ライトハウス第二版では、make…free of…(…に…を自由に使わせる)の見出し項目及び右例文が削除されたこと、右削除について竹林報告書は、LDCE2がLDCE1に掲載されていたことの語義を使用頻度の減少により削除したのに従ったとしていることが認められる。

以上によれば、右例文はかなり堅苦しい表現で英語国民が日常ほとんど使用しないものであり、これを聞いても理解できないとする者もあることが窺われ、この点において、本書の指摘は正しい側面を含んでいることが認められるが、他方、英米の辞書に同様の表現が見られるのであって、内外の英語辞典との比較の上で右例文が文法的に誤りであるとまではいうことができず、本書の摘示する事実が主要な点において真実であるとは認めることができない。

なお、《証拠省略》によれば、被告副島は、前記「英語辞書大論争」の中で、右例文に文法的な考察を加え、make+人+free ofなる構文を知らなかったとした上で、ネイティブ・スピーカーが知らない熟語表現を日本人向けの学習用の中型英和辞典に掲載するという編集姿勢を反省すべきとしている。かかる見解は一つの考え方ではあるが、その前提として本書の摘示する事実が真実と認められない以上、本書の表現が直ちに適法であるといえないことは明らかである。

(整理番号A29)

The drama was quite a hit.(その劇は大当たりをとった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、The play was quite a hit.との訂正例文を挙げた上、「dramaのなかには、戯曲や文学の一分野としての作品という意味は含まれるが、それを実際の身体行動として『演じたり、制作すること』は含まれていない。演技者が演じることを中心にした劇(舞台といってもいい)が評判がいいとかヒットしたとかいう場合は、playを使うのである。」(一〇二頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は右例文が主として例文に使われている単語の意味、用法が間違っているとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民がこのような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、ボリンジャーとイルソンの発言が「?」の記号をもって示されていること(その趣旨は不明である。)、アルトハウスは、LDCE2とOALD4は例文を示していないがこの語義(play)を掲載しているとしていること、これを受けて原告編集部は、dramaにplayの語義はあるから間違いではないが、さらに検討するとしていること、最近の文献上もIngrid starred in the drama with a brilliant British cast…(~dramaで主役を演ずる)、Lis played Chief Sitting Bull in a drama.(~dramaで~を演ずる)の用例がある旨記載していること、他方、英米の辞書では、LDCE2及びOALD4は、「劇場、テレビ、ラジオ向けのplay(芝居)」との語義を掲載していること、そして、ライトハウス第二版は右例文について特に変更を加えていないことが認められる。

以上によれば、英語国民が少なくとも書き言葉では右例文のようにdramaを実際の身体行動として「演じること」の意味で使っていることが窺え、また、英米の英語辞典でも右例文の語義が記載されていることが認められる。したがって、本書の摘示する事実が真実であるとは認められない。

(整理番号A30)

Can you hot up this soup?(このスープを暖めてください)

《証拠省略》によれば、新英和中辞典は動詞hotについて《英口語》との用法表示をして、右例文を挙げているところ、本書は、△印を付し、Can you heat up this soup?との訂正例文を挙げた上、右用法表示を踏まえて、hot upは俗語表現であり、話し言葉の非標準英語として現在では一応許容されているものの、「あまりに無教養な使い方のゆえに、決して文章にしてはならないもの」であって、インフォーマル(親しい間柄)な文章にも適さないから「口語」との指示では不十分であり、また、hot upは「『ある状態が興奮や危険を伴って激化する』という意味でこそ使われるのであって、『スープを温める』というような文で使うことは、今日ではあり得ないのである。」とし、「口語」などの印をつけたとしても不適切である旨記載していること(一〇三~五頁)が認められる。このように本書は、hot upは書き言葉では使わないこと、「スープを温める」という意味では使わないことの二点を指摘しており、その両者の関係は必ずしも明らかではない。この点につき、《証拠省略》によれば、被告副島は、前記「英語辞書大論争」において、本書の指摘を要約して、「スープを温める」という文で使うのは口語表現では許されるにしても文章には適さず、用法表示が不十分であるとの趣旨であるとし、hot upを書き言葉で使う場合もあり、また、「スープを温める」という文で使うのも口語表現では許されるとしているかのごとくであるが、本書を読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、本書の指摘は、hot upは書き言葉では使わないこと、話し言葉でも「スープを温める」との意味では使わないことを指摘する趣旨であるとみるべきである。そして、本書の文脈に照らせば、英語国民がhot upを書き言葉では使わないこと、話し言葉としても右例文の意味では使わないこと及び内外の英語辞典において右例文と同様の用法が掲載されていないことを根拠に例文が不適切であるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A4の場合と同様である。なお、「口語」との用法表示では不十分であるか否かは論評にあたるものというべきである。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ダッチャー、アルトハウス、ボリンジャーはOKとしていること、ウィルキンソンは、口語でなら右例文のように言うがheat upが標準的な言葉であるとしていること、ボイドは、OKとしつつもネイティブ・スピーカーの間で議論の対象となる類のものであるとし、いくら自分たちが悪いとしても我々の過ちは、(1) 不十分な用法表示、(2) 議論の余地のある用法を載せたことにすぎないとしていること、ダッチャーは、heat up(温める)の親しい間柄で使う関連語としてのhot upは珍しい用法ではないし、どんな英語国民にも容易に理解できるものだとしていること、これに対し、前記モーエンの意見は、本書の訂正例文が適切であるとし、hot upは口語であるとともに古めかしいとしていること、他方、英米の辞書では、LDPVは、hot upの項目で「(食べ物などを)熱する、温めなおす」の語義を掲げ、I can hot up the soup for you in two minutes.(私は二分でスープを温めなおしてあげる)を挙げていること、Web3は、「主にイギリス英語」との用法表示をして「温める(特に)温めなおす。通例upを伴って用いられる。」との説明をしていること、RHD2は、「主にイギリス英語でinformal」との用法表示をして「熱する、温める。通例upを伴う。」との説明をしていること、LDCE2のhot upの項目では、「自動詞、informal、特にイギリス英語」との用法表示をして「しばしば興奮し危険な活動が強まる」との語義を掲載しているが、「温める」の語義は掲載していないこと、前記「英語辞書大論争」での右例文の適切性についての英国の辞書会社に対する質問に対し、オックスフォード出版局は不適切でありwarm upを使うのが普通とし、コリンズは適切であるがくだけた又は慣用的用法であるとの回答してきたこと、そして、新英和中辞典第六版では右例文について変更がないことが認められる。

以上によれば、英語国民はhot upを書き言葉では使わないことが窺われ、話し言葉として右例文の意味では使うか否かについても議論の分かれるところであるが、使わないと断定する英語国民は少数であり、また、英米の辞書においても多くは右例文と同様の用法を掲載していることが認められ、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A31)

My tooth is still paining me.(私の歯はまだ痛んでいる)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、My tooth aches. My tooth hurts.との訂正例文を挙げた上、「painをこのように使うことは決してない。動詞としてのpainは『精神的あるいは感性的な苦痛を与える』という意味である。……冒頭の例文では、さらにpainを進行形で使うなどという恥の上塗りのような愚かなまちがいも犯している。」(一〇六頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として、第一に、右例文に使われている単語の意味、用法が間違っていること、第二に、右例文が文法的に間違っていることを理由として批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A12の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウスはこの例文のどこが間違っているというのかなどとし、原告編集部は、類似の表現が英米の辞書にいくらでもあるとした上で、ただしMy back is still paining me a lot.(ボリンジャー)あたりが好例か、などとしていること、これに対し、前記モーエンの意見は本書の訂正例文の方が正しいとしていること、他方、英米の辞書では、OALD4は、My foot is still paining me.(私の足はまだ痛んでいる)との例文を挙げ、COBUILDは、「古めかしい、文語」との用法表示をした上で、On nights like this, his wounded foot pained him.(このような夜には彼の怪我をした足は痛んだ)との例文を挙げていること、LDCE2は、「格式的」との用法表示をした上、「(身体の一部が)~に痛みを与える」との語義を掲げていること、ところが、ライトハウス第二版では右例文は削除されていること、右削除について竹林報告書では、LDCE2がpainの「身体的苦痛を与える」との語義の掲載順序をLDCE1での一番目から二番目に落とし、「精神的苦痛を与える」との語義を一番目にしたのに伴い、使用頻度の減った「身体的苦痛を与える」との語義に関する右例文を削除したとしていることが認められる。

以上によれば、英語国民がpainを「身体的苦痛を与える」との語義でも使っており、英米の辞書でも右語義で、かつ進行形で使っている例があることが認められ、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A32)

She has some defects, but I like her all [just] the same.(彼女には多少欠点はあるがそれでも私は彼女が好きだ)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、She has some faults, but I like her all the same.との訂正例文を挙げた上、「冒頭の例文のようにdefectを使うと、この彼女が身体上の障害、ハンディキャップなどを持っているという意味になる。あるいは、人格上の深刻な欠陥、もっとはっきり言うと精神障害のようなものがあるという含意がある。」(一〇八頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として右例文に使われている単語の意味、用法が間違っていることを理由として批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、イギリス出身のボイドはOKであるが英米で微妙な差があるかもしれないとし、イルソンはOKであるがfaultsがよりよいとしていること、ウィルキンソンは、defectが何か欠落していることを含意し、faultsが普通の語であると言っている点で被告副島は正しいが、faultにはdefect of characterの意味があるので右例文がそれほど悪いとは思わないとしていること、原告編集部が英米の文献での使用例を挙げていること、この使用例について前記「英語辞書大論争」ではすべて的外れであるとしていること、これに対し、前記モーエンの意見はdefectsとfaultsは必ずしも同義語ではなく、両者は文意次第でともに用いられ得るとしていること、他方、英米の辞書では、OALD4は、a defect of character(性格上の弱点)との用例を挙げていること、OED2は、「(人や物の)欠陥、欠点、弱点」などの語義とともにVauvenargues has the defects of his qualities.(ヴォーヴナルグには長所に伴う欠点がある)との例文を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では右例文は、I know I shouldn't have done it, but I did it all [just] the same.(してはいけないことはわかっていたがそれでも私はやってしまった)との例文に差し替えられたこと、右差し替えについて、竹林報告書は旧版の例文は誤りではないが状況的に若干分かりにくいのでより高校生に分かりやすい用例に変更したとしているが、竹林はその証言の中で、状況が分かりにくいからというよりは、好き嫌いの感情を表す例文があまり好ましくないとする指摘があり少しずつ避けていくという方針に基づくものであるとしていることが認められる。

以上によれば、英語国民の感覚としてdefectはfaultよりは強い意味ではあるが「性格の欠点」という場合にも用いられること、英米の辞書でも「性格の欠点」の意味で用いる例文が挙げられていることが認められ、また、ライトハウスの改訂で右例文が削除されたのもdefectの用法が不適切であるからではないことが窺われるのであって、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A33)

The fish scaled a pound.(その魚は目方が一ポンドあった)

《証拠省略》によれば、ライトハウスは右例文を自動詞の「目方が~ある」の例文として挙げているところ、本書は、これについて×印を付し、The fish weighed a pound.との訂正例文を挙げた上、「いつの時代の英文から盗んできたのか知らないが、こういう古くさい使い方は、現代ではもうしないのである。アメリカ人は絶対に使わない。イギリスの老人のなかには、まだ使う人がいるかもしれないが、イギリスでも『重さが…ある」と言うときはweighというきちんとした動詞を使うのである。」(一〇九頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主としてイギリスの老人以外の英語国民が右例文を使わないとして批判するものであって、この本書の記載がイギリスの老人以外の英語国民は現在では右例文を使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイド、アルトハウスはOKとしているのに対し、イギリス出身のウィルキンソンは、scaleが現在では動詞として用いられないとする点で被告副島は正しいが、かつては使われていたに違いないと思う、そうでなければCOD7に出てこないだろうとしていること、他方、イギリスの辞書では、OALD4は、「(ある重量の)目方がある」との語義についてThe boxer scaled 90 kilos.(そのボクサーは九〇キロあった)との例文を挙げており、LDCE2は、「informal」との用法表示の上、「(特にボクサーについて)体重が(ある重さ)ある」との語義を掲げており、COD7は、他動詞として「(測ったものが)目方で(ある重さ)ある」との語義を掲げていること、アメリカの辞書では、一九六六年改訂のWeb3は、自動詞の用法としてat 19 he scaled 12 stone.(一九歳のとき彼は体重が一二ストーンあった)との例文を挙げていること、一九八〇年刊行のWorld Book Dictionary(ワールドブック英英辞典、以下「WBD」という。)は、他動詞の例文としてHe scales 180 pounds.を挙げていること、ライトハウス第二版では、右例文は削除され、「略式語」との用法表示と語義の後に「(weigh)」との記載が付加されたこと、右変更について竹林報告書は頻度の落ちる動詞であるので語義のみ残して例文は削除したとし、証人竹林も同趣旨を述べた上、scaleでもいいが魚を主語にしてpoundとともに用いる場合少々大袈裟であり、ボクサーを主語とするのが今では普通になっているが右例文の用法も奇妙とはいえないとしていることが認められる。

以上によれば、現在では英語国民の一部がscaleを動詞として使わなくなったことが窺われ、ライトハウスの改訂においても使用頻度の減少により例文を削除していることが認められるが、イギリスの老人以外の英語国民が現在では右例文を使わず、また、内外の他の英語辞典に類似の例文が掲載されていないとも認めることはできず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A34)

The three boxes are of the same size.(その三つの箱は同じ大きさだ)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、The three boxes are the same size.との訂正例文を挙げた上、「このof the same sizeというのは、今日の英語圏ではまったく使われていない表現である。……アメリカ英語よりは多少古いものを多く残しているイギリス英語でも、冒頭のof the same sizeは使われていないことに変わりはない。」(一一一頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として現在の英語国民が右例文を使わないとして批判するものであって、この本書の記載が英語国民は現在では右例文を使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボリンジャー、イルソン、アルトハウス、ボイドはOKとしていること、他方、アメリカの辞書であるRHD2は、of a sizeの項目を設け「同じまたはほぼ同じサイズの」との語義を示し、The poodles are of a size.との例文を挙げていること、ところが、ライトハウス第二版では右例文はThe shoes are the same [a different] size.(この靴は同じ大きさだ[大きさが異なる])との例文に差し替えられたこと、右差し替えの理由について竹林は、第二語義を充実させた関係とsizeを一番最後に持ってくる例文がほしかったこととしているが、第二語義を充実させるとなぜ例文を差し替えることになるのかは明らかでなく、初版の例文もsizeが一番最後にきていることからすると、差し替えの理由は必ずしも明確とはいいがたいこと、竹林は全く使わないという本書の批判は言い過ぎであるとしていることが認められる。

以上によれば、本書の指摘は結果的にはライトハウスの改訂内容に沿うものであったこと、また、内外の英語辞典でbe動詞+of the same sizeとの表現がそれほど多くは掲載されていないことは認められるが、英語国民がof the same sizeとの表現を全く使わないとまでは認めることはできず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A35)

a dog worrying shoes(靴をかみ散らかしている犬)

《証拠省略》によれば、本書は、新英和中辞典に掲載されている右用例に×印を付し、a dog worrying sheepとの訂正用例を挙げた上、「冒頭の例文はまちがいである。a dog worrying sheepならば、歴史的なコトバづかいとして存在する。」などとし、a dog worrying sheepとの用例が出現するに至った歴史的背景を説明していること(一一五~六頁)が認められる。このように、本書は主として現在の英語国民が右例文を使わず、例文に用いられている単語の意味、用法も不適切であるとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、本書の記載は英語国民が右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドは、本書に「本来は『悩ます』『心配させる』の意味であるworryが……」とあるが、Collins Dictionary of the English Language, 2nd edition(コリンズ最新英英辞典第二版、以下「CELD2」という。)で語源を参照するとおおよそ「殺す、絞め殺すなど」とされているとし、後記のCELD2の記載を挙げ右例文が正しい旨述べ、ダッチャーは、これはイギリスの農耕社会を起源とし今日でもなお用いられている表現の、派生的であるが普通の現代的用法であるとし、ウィルキンソンも、この例文は正しいとし、worryのもとの意味は「のどを掴んで窒息させる」であるが、「(1) 歯でかむ、(2) 歯でかんで振り回す」の意味に分かれたとしていること、これに対し、前記モーエンの意見は、ライトハウスの例文は非常に古めかしい用法であり、仮に使われるとしてもごく稀にしか用いられないとしていること、他方、英米の辞書では、CELD2は、「歯でくわえて引き裂いたり噛んだりする」の語義を掲げ、a dog worrying a bone(骨をくわえて振り回している犬)との例文を挙げており、定評あるアメリカのカレッジ版辞典であるWebster's New World Dictionary, 3rd college edition(ウェブスター・ニュー・ワールド英英辞典第三版、以下「WNWD」という。)もほぼ同様の語義を掲げ同じ例文を挙げていること、外国人学習者用の中級辞書であるChambers Universal Learners' Dictionary(チェンバーズ新ユニバーサル英英辞典、以下「CULD」という。)は、That dog's been worrying my slippers again.(あの犬ときたらまた私のスリッパをくわえて振り回している)との例文を挙げていること、OALD4は、「(特に犬が)歯で(物を)掴んで振り回す」との語義を掲げ、The dog was worrying a rat.(犬が鼠をくわえていた)との例文を挙げていること、これに対し、LDCE2は「(動物を)追いかけて噛みつく」との語義を掲げていること、そして、新英和中辞典第六版では、右例文はThe dog is worrying a shoe.(犬が靴をかんだり引っぱったりしている)に差し替えられているが、これは本書の指摘に沿うものではないことが認められる。

以上によれば、英語国民の多くは右例文の用法を使うことが窺われ、また英米の辞書でも類似の用法が見られるのであって、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A36)

That troop did not fight the enemy.(その軍隊は敵とは戦わなかった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、Those troops did not fight the enemy.との訂正例文を挙げた上、「troop(軍隊)という語は、「普通は複数形で」と『ライトハウス』自身がp.1525のtroopの項でちゃんと書いている。これなのにこの始末である。」(一二二頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は主として例文に用いている単語の用法が誤っているとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、本書の記載は英語国民が右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、原告は、英米人から見ると本書の指摘に一理あると認めうるが、英米の辞書に同種の例文があることなどの理由から右例文が完全に間違いと断定することはできない旨主張しているところ、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウスは、この文が一つの軍隊を意味するなら正しいとし、ボイドもOKとしているのに対し、ボリンジャーは「?」としThe troop was out on patrol.の方がベターであるとしていること、イルソンは「×」としていること、ウィルキンソンも文自体がおかしいとしていること、また、前記モーエンの意見は本書の訂正例文の方が正しいとしていること、他方、英米の辞書では、OALD4は、複数形で「兵士たち」との語義を示すとともに、可算名詞として「装甲部隊、砲兵隊、騎兵隊」の語義を示していること、LDCE2も、「兵士の一団、特に騎兵隊」の語義を掲げるとともに、複数名詞として「兵士たち」の語義も示していること、そして、ライトハウス第二版では、右例文はThat unit did not fight the enemy.(その部隊は敵とは戦わなかった)との例文に差し替えられていること、右差し替えについて、竹林報告書はfightの用例として端的な主語であるunitに変更したにすぎないとしていること、証人竹林はtroopは普通は複数形で使うが単数形で使うこともないわけではないとし、ただ右例文はあまりいい用例ではないからより良いものに変えたとしていることが認められる。

以上によれば、troopを単数形で使う用法を英語国民が許容するか否かは、当該英語国民によって判断の分かれるところであり、ライトハウスの改訂も本書の指摘に抵触しない形でされていることが認められるが、英米の辞書では構成要素を捨象して集合体としての軍隊を指す場合、単数形で用いる例も否定されておらず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A37)

a running nose(鼻水の出ている鼻)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右用例に×印を付し、a runny noseとの訂正用例を挙げた上、「a running nose『だらだらといつまでもたれ流しの状態で出ている鼻』というような気持ちの悪い英語は、汚らしくて使いようがない。正しくはrunnyだが、『ライトハウス』でrunnyを調べてみると、これが載っていない。」(一二六頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、第一に、例文に用いている単語の用法が誤っていること、第二に、必要な単語が掲載されていないことを理由に批判するものであるが、前者ついては、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、本書の記載は英語国民が右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A2の場合と同様であり、後者については、これが論評に当たることは整理番号A16の場合と同様である。

そこで、前者について、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、イルソンとアルトハウスはOKとし、ボイドも正しいとしていること、これに対し、前記モーエンの意見では本書の訂正例文の方が正しいとしていること、他方、イギリスの辞書では、LDCE1は、「液状のものが出る」との語義を掲げ、a running nose/sore(鼻水が出ている鼻、うみの出ている傷口)との用例を挙げていたのに対し、その改訂版であるLDCE2は、形容詞のrunningの項の用例として、a running soreを挙げているがa running noseは削除していること、COBUILDはa running noseを「普通は風邪が原因で鼻から鼻汁が出ること」と定義し、Some were coughing. Others had running noses.(せきが出る者もあり、鼻水が出る者もある)との例文を挙げていること(なお、前記「英語辞書大論争」はCOBUILDも調べたが、running noseの例文は見つからなかった旨記載しているが、右記載は明らかに誤りである。)、そして、ライトハウス第二版では右用例はa running sore(うみが出ている傷)に差し替えられていること、右差し替えについて竹林報告書は、右用例は誤りではないが「うみが出る」の語義が「鼻水が出る」の語義よりも先に載せているので用例も前者に対応するものに改めたとしていること、また、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、原告編集部は、runnyは次の版で載せるとし、現にライトハウス第二版では、runnyの見出し語を掲載し「水っぽい、鼻水の出る」の語義とhave a runny nose(鼻水が出る)との用例を挙げ、本書の批判に対応していることが認められる。

以上によれば、ライトハウスが本書の指摘に沿う改訂をしていることは認められるが、英語国民の多くがa running noseの用例を使うことが窺われ、また、英米の辞書には全く同じ用例が記載されたものもあることが認められるから、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号A38)

(as) numberless as the sands of the sea(浜の真砂の数だけの、無数の)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに独立の項目として掲載されている右熟語に×印を付し、(as) numberless(numerous)as the fish in the sea (海の中の魚たちのように、無数の)、(as) numerous as the grains of sand on the beach(浜辺の砂の粒子のように、無数の)との訂正例文を挙げた上、日本語では石川五右衛門が言ったという「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種はつきまじ」で「浜辺の砂のように無数の」という表現があるが、「これを英語に直訳してそれで通じると思っている、その神経がどうかしている。」(一二六頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として英語国民が右例文を使わないとして批判するものであって、この本書の記載が英語国民は右例文を使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウス、ボリンジャー、ウィルキンソン、ボイドはOKとし、アルトハウスは、これが間違いであるとする者は文語的な英語の知識がないとし、日本語の「砂の真砂」からの直訳どころか古くからの英語国民の概念であるとしていること、他方、イギリスの辞書では、被告副島も本書(一二頁)の中で例文の正誤の基準としているThe Pocket Oxford Dictionary, 5th edition(ポケット・オックスフォード英英辞典第五版、以下「POD5という。)は、numberless as the sand or sands(砂の数ほど無数の)を挙げていること、聖書の(Revised English Bible)には、countless as the sands of the sea(浜の砂のように数えきれない)との用例があること、ジーニアス英語辞典にも右用例と全く同じ用例が掲載されていること、そして、ライトハウス第二版では、右熟語は項目ごと削除されていること、右削除について竹林報告書は、聖書に出典があるが、高級な表現であるのでライトハウスが高校生を対象とすることから削除したとしていることが認められる。

以上によれば、右用例は文学的表現として英語国民も使うし、内外の辞書、聖書にも同一ないし類似の表現が掲載されていることが認められ、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A39)

He sawed the towel across his back.(彼はタオルを背中に回してごしごしこすった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、He rubbed [dried] his back with the towel.との訂正例文を挙げた上、「このsawはふつうは『のこぎりで切る』という動詞である。……のこぎりを横に、繰り返し押したり引いたりするという意味から、タオルを背中に回してごしごしこするという意味で使っているわけである。本当にこんな使い方ができると思っているのだろうか。」(一二九頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として英語国民が右例文を使わないとして批判するものであって、この本書の記載が英語国民は右例文を使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドはOKとし、ボリンジャーは動作を叙述するものとしてはOKとした上He sawed that rough towel across his back until the skin was raw.などがよりよいとしているのに対し、ウィルキンソンは、この例文はCDEL2に載っている語義の一つには適合するが、私はこれまでにこんな使い方に出会ったことはないとし、Saw the air with one's arms.が普通であるとしていること、また、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する右例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード大学出版局は適切でないとの回答を、またコリンズは×印を付し不可能ではないと思われるが普通でない使い方であるとの回答をしていること、他方、英米の辞書では、一九六六年刊行のWe b3は、「のこぎりを使うような手つきで動かす」との語義を掲げ、sawing the towel across his back――A P. Gaskell(タオルで背中をごしごしこする)との例文を挙げていること、LDCE1は「のこぎりで切るように手を前後に動かす」との語義についてsawed at the loaf with a blunt bread knife.(なまったパン切りナイフでパンをごしごし切った)との例文を挙げていたのに対し、その改訂版のLDCE2は、右の語義を削除し「のこぎりで切る」の語義の例文として「比喩的」との注を付しHe sawed at the loaf with a blunt bread knife.(彼はなまったパン切りナイフでパンをごしごし切った)を挙げていること、OALD4は、「のこぎりでするように前後に動かす」との語義について、sawing at his fiddle((弓をのこぎりのように動かして)バイオリンをキーキー引く)との例文を挙げていること、堀内の前記雑誌論文では、前記We b3の記載に触れた上、「これは個性のある文学的表現であって、出典があって意味をなすものである。可能ではあっても、学習用英和辞典用の一般的な例ではない。こういう流用の際にその表現の文体的性格や一般性を判断するのも編集者の役目である。」との記載がされていること、そして、ライトハウス第二版では右例文は削除されたこと、この削除について竹林報告書は、LDCE2の改訂で頻度が低く語義が削除されたのを参考にしたとしていることが認められる。

以上によれば、右例文はsawの用法として全く不可能ではないものの、現代の英語国民はほとんど使わないものであり、また、英米の辞書では、全く同じ例文がわずかにWe b3に掲載されているが、これも出典を引用していることからして一般性のない文学的表現として掲載されていることが窺われ、OALD4の例文は類似しているようにもみえるが、OALD4を出版するオックスフォード出版局は右例文を不適切としていることからすると、右例文を許容しているわけではないことが窺われる。したがって、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であると認められ、右例文に関する指摘は適法であるということができる。

(整理番号A40)

Good cabbages are very scarce this month.(今月はよいキャベツがとても少ない。)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、Good cabbage is very scarce this month.及びThere are three heads of cabbage in the larger.(食糧貯蔵庫にはキャベツが三個ある」との訂正例文を挙げた上、「cabbageはuncountable noun(不可算名詞)である。つまり、数えられない名詞である。そもそも数えられないのだから複数形はない。したがって、冒頭の例文は誤文である。……もっともイギリスの庶民階級の人びとは、文法的にまちがいであると分かっていても冒頭のようにcabbagesと使うであろう。……ただ、ここでは、私はごく一般的に、ふつうの高等教育を受けた英米人ならば決してやらないであろうまちがいはすべきでないという立場に戻って論を進めるばかりである。」(一三〇~一頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文が文法的に誤っていて、高等教育を受けた英米人は使わないとして批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、高等教育を受けた英米人は使わないこと及び内外の英語辞典に掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A8の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボリンジャー、イルソン、ウィルキンソン、ボイド、アルトハウスはいずれもOKとしており、ウィルキンソンは、「ここでは彼は全く間違っている。cabbageは一個まるごとのキャベツを意味するときは可算名詞である。我々はthree heads of cabbageとは決して言わず、three cabbagesと言う。しかし、キャベツが切られて食べ物として出されたときには、不可算名詞である。」と述べていること、また、前記「英語辞書大論争」では、被告副島自身「どうやらこのウィルキンソン先生の説が正しいようだ。したがって、私の誤りである。」としていること、前記英国の辞書会社に対する右例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード大学出版局、コリンズはともに適切であるとの回答をしていること、他方、英米の辞書でも、LDCE2、OALD4等で「一個まるごとのキャベツ」の語義に対しては可算名詞との用法表示がされていること、そして、ライトハウス第二版では右例文はIn old days. fresh vegetables were scarce in winter.(昔は冬には新鮮な野菜が不足した)との例文に差し替えられているが、右差し替えについて竹林報告書は、より具体的に高校生に分かりやすい状況の例文に変更したとしていることが認められる。

以上によれば、右例文は一般に英語国民も使うし、英米の辞書にもcabbageが右例文のような場合に可算名詞として用いられることが示されていることが認められ、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A41)

the scoff of the world(世間のもの笑い)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右用例に×印を付し、He is laughing stock of the town since he had his hair dyed.(彼は髪を染めてから、世間のもの笑いになっている)との訂正例文を挙げた上、「名詞scoffは『あざけり、もの笑い』であるが、このライトハウスの例文は、他の六、七冊の英語辞典を調べてみても見当たらない。……意味不明のコトバだとしか言いようがない。」(一三三頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右用例に用いられている単語の意味、用法が他の英語辞典と比較して誤っているとの観点から、また、補充的に英語国民に通じないとの観点から批判しているものとみられ、この記載が右用例と同様の用例が内外の英語辞典に掲載されていないこと及び総体としての英語国民に通じないことを根拠に誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは、整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドはOKだがやや古くさいとしていること、アルトハウスはOKだがライトハウスには要らないだろうとしていること、他方、英米の辞書では、LDCE1は、ideas which were the scoff of the scientific world(科学の世界ではもの笑いのアイディア)との用例を挙げ、OALD3COD7、Web3が「あざけりの対象」などの語義を掲げていること、また、ジーニアス英和辞典は、右用例と全く同じ用例を挙げていること、しかし、LDCE1の改訂版のLDCE2は、名詞としてのscoffの語義を「軽蔑の笑いの表現・表情」とのみ記載し、また、OALD3の改訂版のOALD4は、「あざけりの言葉、侮辱」との語義のみを掲げていること、COBUILDには名詞のscoffの項目がないこと、そして、ライトハウス第二版では右用例は「笑いぐさ、もの笑い」の語義とともに削除されたこと、右削除について竹林報告書は、LDCE1の改訂によりLDCE2では例文が削除されており、古い表現でもあるので削除したなどとしていることが認められる。

以上によれば、最近の英米の英語辞典では「あざけりの対象」との語義、例文は削除される傾向にあるものの、右用例と同様の用例が内外の英語辞典に全く掲載されていないわけではなく、語義のみならいまだいくつかの英語辞典に掲げられていること、英語国民も古い表現として右用例の意味を理解しうることが認められ、他に本書の摘示する事実を真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A42)

They scoured the country about for the lost child.(彼らはその地方をくまなく駆け巡って迷子を捜した)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、They scoured [searched] the countryside for the lost child.との訂正例文を挙げた上、「scour『~を捜して走り回る』という動詞は、他の辞書などをよく調べてみると、aboutのような副詞あるいは前置詞を必要としない。したがって、このaboutは不要である。……さらに、この例文は『地方』というコトバの使い方でもまちがっている。the countryと使うと『その国(全部)』という意味になる。もし、『その地方』という意味で使うのならthe countrysideあるいはthe areaを使わなければならない。」(一三四頁)などと記載していることが認められる。このうちthe countryについての批判は、整理番号A43と同旨であるので、後に併せて検討する。scourについて、本書は、主として右例文に用いられている単語の用法が誤っているとの観点から批判するものであるが、この記載が総体としての英語国民が使わないこと及び批判の対象とされた単語の用法と同様の用法で当該単語を用いる例文が内外の英語辞典に掲載されていないことを根拠に誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは、整理番号A8の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドはOKとし、アルトハウスはOKとしつつ、They scoured surrounding area for…か何かに変えましょうなどと述べていること、これに対し、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する右例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード大学出版局は適切でないとしaboutを取り除くべきとの回答を、またコリンズも右例文のaboutの上に線を引いて消して同様の回答をしていること、前記モーエンの意見は、本書の訂正例文の方が適切であるとしていること、他方、英米の辞書では、一九六八年刊行の米国の学生向け辞書であるThorndike Barnhart High School Dictionary(ソーンダイク・バーンハート・ハイスクール英英辞典、以下「HSD」という。)は、Men scoured the country round about for the lost child.(男たちはその地域をくまなく駆け回って迷子を捜した)との例文を挙げていること、これに対し、前記オックスフォード大学出版局が刊行するOALD4は、scourについて「人・物を捜して(ある地域を)徹底的に調べる」との語義を示す一方で、scour aboutを句動詞として掲げ、「人・物を捜してすばやく動き回る」との語義を示し、両者を区別していること、ライトハウス第二版では右例文はThey scoured the surrounding area for the lost child.とのアルトハウスが示したのと同じ例文に差し替えられていること、右差し替えについて竹林報告書は、HSDの例文と酷似するのを避けるため変更したとしていること、また、竹林は、aboutが必要であるかどうかを断言できないとしていることが認められる。

以上によれば、英語国民が、scour…aboutとの用法を全く使わないとまでは断定できないものの、あまり使わないものであって、英米の辞書でも、やや古い辞書の中での唯一の例外を除いては証拠上右用例を右例文の意味で用いているものは認められず、ライトハウスの改訂でも結果的に本書の指摘に沿う例文に差し替えられたことが認められ、その差し替えの理由がHSDの辞書の例文と酷似しているからというのは、HSDが一九六八年刊行のやや古い辞書である上、修正を別の部分に施すことも可能であったことからして、にわかに信じ難い。したがって、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であると認められ、右例文に関する指摘は適法であるということができる。

(整理番号A43)

live in the country(田舎に住む)

《証拠省略》によれば、本書は、整理番号A42のcountryの用法について批判した後、ライトハウスに掲載されている右用例に△印を付し、「現在では『その国で暮らす』の意味と混同しやすく、誤用と言ってよい。」(一三四頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右用例に用いられている単語の意味が誤っているとの観点から批判するものであるが、この記載が総体としての英語国民が使わないこと及び批判の対象とされた単語の意味と同様の意味で当該単語を用いる例文が内外の英語辞典に掲載されていないことを根拠に誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは、整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウスは中学生さえこの例が正しいことは知っているなどとしていること、また、「英語辞書大論争」の中で、被告副島自身私の誤りであるとしていること、さらに、英米の辞書でも、LDCE2は、(the+単数形)との用法表示の下に「市街地や町の外側の土地」などの語義を掲げ、OALD4も、the countryについてLDCE2と同様の語義を掲げ、右用例と全く同じ用例を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では右用例について変更はないこと、整理番号A42の例文については前示のとおりthe countryをthe surrounding areaに差し替えられているが、右差し替えについて、竹林は具体的な方がよいからであるとしていることが認められる。

以上によれば、右用例を英語国民が使うこと、また、これと同様の意味でcountryの語を用いる用例が英米の英語辞典に掲載されていることが認められ、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号A44)

Let's turn and go home.(引き返して家へ帰ろう)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、Let's turn back [around] and go home.との訂正例文を挙げた上、「turnだけで『引き返す』という意味を持たせることは不可能である。turnは、自動詞では『回転する』『向きを変える』『変化する』といった語義である。『ぐるりと一八〇度向きを変える』という意味ならば、副詞のaroundをつけてturn aroundか、あるいはturn back『振り向く』を使わなければならない。」(一三五頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文に用いられている単語の意味、用法が誤っているとの観点から批判するものであるが、この記載が総体としての英語国民が使わないこと及び批判の対象とされた単語の意味、用法と同様の意味、用法で当該単語を用いる例文が内外の英語辞典に掲載されていないことを根拠に誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは、整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドはOKとし、むしろ本書の訂正例文のand go home.は不要であるとしていること、アルトハウスはこの例文で全く問題ないとしていること、また、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する右例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード大学出版局は適切であるとするのに対し、コリンズは不適切でありLet's turn round & go home.と言う方が慣用的であるとの回答をしていること、他方、英米の辞書では、OALD4は、It's time we turned and went back home.(私たちは引き返して家路につく時間です)との例文を挙げていること、WBDは、It is time to turn and go home.(引き返して家に帰る時間だ)との例文を挙げていること、アメリカ人学習者向けで高校生用の辞書であるMacmillan Dictionary(マクミラン英英辞典)は、右例文と全く同じ例文を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では、右例文はThe boat turned and headed back to port.(船は向きを変えて港に向かって引き返した)との例文に差し替えられたこと、右差し替えについて竹林報告書は、具体的状況がよく分かる例に変更したとしていることが認められる。

以上によれば、英語国民は右例文を使うことが窺われ、また、右例文のturnと同様の意味、用法でこの語を用いる例文が英米の辞書にも掲載されていることが認められ、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A45)

afterlife(来世、あの世;(人の)後年、余生)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右単語に×印を付した上、「afterlifeというコトバは、奇異に感じる。こういうコトバはあることはあるのだが、通常の英語世界では使われない。こんな語は載せる必要がない。この語は、例えば東南アジアの一八世紀の仏教関係の文献を英訳したものの中で『輪廻転生』の意味ででも出てきそうな、そんな語である。さらにおかしなことは、『あの世』と『退職後の生活』というまったく違う語義がひとつにまとめられてしまっていることである。」(一三六頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、第一に、英語国民は右単語を通常使わないこと、第二に、訳の掲載の仕方が不適切であることを理由に批判するものであるが、前者が総体としての英語国民が右単語を通常使わないとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様であり、また後者は客観的に真又は偽としての性格付けができるものではないから論評に当たるというべきである。

そこで、右事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ウィルキンソンは、どこが間違っているのかなどとし、アルトハウスは、この語は我々の与えた二行分の価値が十分にあるとしつつ、ただし、「(人の)後年」の意味は削除してよいとしていること、他方、英米の辞書では、LDCE2は、「1 死後の世界、2 人生の後の部分」の語義を掲載しているのに対し、コンピュータで集めたデータに基づく客観的な記述で知られるCOBUILDは、「一部の人が死後始まると信じている生活」との定義をし、例文も挙げられているが、「後年、余生」との語義は掲載されていないこと、そして、ライトハウス第二版では、右単語の項目に《格式語》との用法表示が追加され、「(人の)後年、余生」との訳は削除されていること、右変更について竹林報告書は、新たな資料としてCULDを参照し頻度の低い語義を削除したとしていること(なお、CULDは証拠として提出されていない。)が認められる。

以上によれば、afterlifeとの語は、ライトハウスに掲載されている訳のうち「(人の)後年、余生」の意味ではあまり使われなくなってきていることが窺われ、その限りで本書の指摘する事実の一部は真実であるともいい得るが、afterlifeとの語自体が通常使われないということはできず、他に本書の摘示する事実が主要な部分において真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A46)

The doctors are fighting for his life.(医者たちは彼の命を助けようと奮闘している)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、He fought [fought against] cancer and lived to be eighty.(彼は癌と闘って八〇歳まで生きた)との訂正例文を挙げた上、「『ライトハウス』の自動詞のfightの用法の二番目の『奮闘する』の用例として載せてある上の例文は、奇妙な文である。『人間』が『闘う』の意味のfightと取るときには、訂正例文のように他動詞として、fight a disease『病気と闘う』の形を使うのであって、fight forなどという使い方自体がおかしい。……forはfightという動詞とは関係なく、独立して、単に『目的』を表わす前置詞として使うのである。fight forで熟語だと考える、その動詞句(verb phrase)の分類法上の考え方自体に根本的な欠陥がある。」(一三八頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文に使われている単語の用法が間違っていることを理由として批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A8の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボリンジャー、イルソン、ウィルキンソン、ボイド、アルトハウスはいずれもOKとし、ウィルキンソンは何が間違っているのかなどとしつつ、He is fighting for his life.の方がより自然であるが、fight to saveを意味するfight forは全く正しいとしていること、ボリンジャーは再帰的にHe is fighting for his life.とも、非再帰的にThe doctors are fighting to save his life.とも言うだろうとしていること、アルトハウスは全く普通の文であるとしていること、また、前記モーエンの意見は、右例文と訂正例文は両方とも正しいとしていること、他方、英米の辞書では、COBUILDは、fight for their life.を「生き延びるために多大な努力をすること、身体的に襲われたとき、病気のときのいずれにも使う」と定義し、He is fighting for his life.との例文を挙げていること、LDPVは、fight forの項目で、「(ものや人を)守るために努力する、闘う」との語義を掲げていること、fight for one's lifeをゴシック体で示し、to be dangerously illとの語義を掲げていること、そして、ライトハウス第二版では、右例文はSince the operation the little girl has been fighting for her life.(手術以来少女は生きるために闘ってきた)との例文に差し替えられたこと、右差し替えについて竹林報告書は、もとの例文は物語の一部からで前後関係が分かりにくいので変更したとしていることが認められる。

以上によれば、He is fighting for his life.のようにfight forの後に「主語の生命」を取る用法の方がより自然であり、英米の辞書にはこれを別項目で掲げているものもあるが、右例文のようにfight forの後に「主語以外の生命」を取る用法も英語国民は普通に使うこと、また、英米の辞書にもfight for~の用法が右例文の意味で掲載されていることが認められ、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A47)

There were many fights between England and France.(英国とフランスとの間には多くの戦いがあった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文について「ずいぶんとおかしな例文である。」とし、×印を付して、There were many wars between England and France.との訂正例文を挙げた上、「このfight『闘い、闘争』の意味は、battlesかwar、すなわち『戦争』の方が適切であるし、そうでなければならない。fightはあくまで人間と人間の『殴り合い、けんか』から出てきた語だからである。」(一四〇頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文に使われている単語の意味、用法が文脈上不適切であることを理由として批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、英語国民が右例文のような使い方をあまりしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の意味、用法が掲載されていないことを根拠に例文が誤りであるとの事実を摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A2の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドはOKとし「fightの意味は難しいが」などと述べていること、ボリンジャーは、この文脈での「fightsはbattles(戦い)というよりはdisputes(争い)を示唆するとし、この語義によるならば、私は、there have been many fights between England and France over these policies.又はThere were endless battles between England and France during that war.又はこの語のそれほど劇的でない意味に相応して、In all their brotherly fights, they never really hated each other.のように言うとしていること、他方、英米の辞書では、LDCE3は、「二人、二つのグループ、二国などの間の戦い」との語義を掲げ、CULDは、「人や国などの間の肉体的な暴力行為」との語義を挙げていること、ただし、これらの辞書では、二国間の戦争の意味での例文は挙げていないこと、COBUILDは、fightの動詞としての用法の一つとして「戦い、戦争に参加すること」と定義し、「名詞として使われる。特にある特定の場所を制するための戦いを示す」としていること、そして、ライトハウス第二版では、右例文及びWe had a hard fight.(我々は苦戦した)との例文を削除して、新たにa fight for higher pay(賃上げ闘争)、a snowball fight(雪合戦)、Mr. Long faces a hard fights for reelection.(ロング氏は再選に向けての厳しい戦いに直面している)の例文を加えていること、この変更について竹林報告書は、国家間の戦争でも一つの戦争の中のいくつかの戦闘についてfightも使うとした上、より学習効果の高い例文と差し替えたとしていること、また竹林は、右例文が両国間の戦争のどの戦闘についてかを特定していないことは不適当といえば確かに不適当であるが、文脈を与えずに文章の一部分を取り出して例文を掲載する辞書の宿命であるとし、ボリンジャーの右例文におけるfightの用法がdisputes(争い)を示唆するとの前記見解は厳しすぎ、湾岸戦争のときにアメリカのニュース番組で何度も使っているのを聞いたとしていることが認められる。

以上によれば、英語国民の中には右例文が正しいとする者もあるが、fightはdisputes(争い)の意味の方が強く「戦争」の意味ではあまり使われないことが窺われ、また、英米の辞書によれば、fightは国家間の戦いでも使われることがあるが、特にある特定の場所を制するための戦闘で使われることが多いこと、ライトハウスの改訂では、結果として本書の指摘を受け入れる方向での変更がされていることが認められる。したがって、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であると認められ、右例文に関する指摘は適法であるということができる。

(整理番号A48)

You'd better give your wife her head.(奥さんの好きなようにやらせたほうがいい)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、「『ライトハウス』のheadの項の熟語の欄にあるgive…'s head『~の気ままにさせる』という語句は、現代英語では使われない。イギリス英語でもこんな用例は見当たらない。」(一四三頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文に使われている語句が現代英語では使われないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての現代の英語国民が右例文に使われている語句を使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ウィルキンソンはこの例文のどこが間違っているのかなどとし、イルソン、アルトハウス、ボイドはOKとしていること、また、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード大学出版局はOKとし、コリンズも文脈が明らかにされていれば適切であるとしていること、これに対し、前記モーエンの意見では、右例文は古めかしい用法であって、たいていの人はYou'd better let your wife have her way.というだろうとされていること、前記週刊朝日の記事では、六人のネイティブ・スピーカー全員が右例文を不適切であるとし、「had better(~したほうがいい)の言い方は、命令―服従の関係がかなり濃い用法で、犬とか、馬ならともかく、奥さんでは具合悪いという。犬なんかなら、首輪や手綱を緩めたらいいの意味で使えても、wifeとなると、逆に、卑猥な意味になるとも。」などとされていること、他方、イギリスの辞書では、OALD4は、give sb(目的語)his headで「人に自由にやらせる」との意味であると記載しており、COBUILDは、give someone their headで「助言したり止めたりせず人のやりたいようにやらせてやる」との意味であると記載していること、話し言葉、書き言葉で常用されている英国のイディオムを中心に収めた辞書であるLongman Dictionary of English Idioms(ロングマン英語慣用句辞典、以下「LDEI」という。)は、give… his headで「非格式的」との用法表示の上「人の望むとおりにやらせる」の意味を掲げ、each time we give you your head, you do something stupid.との例文を挙げていること、本格的な慣用句辞典で用例の多くを現代の小説、自伝などの作品や新聞・雑誌・テレビ・ラジオから集めているOxford Dictionary of Current Idiomatic English(オックスフォード現代英語慣用句辞典、以下「ODCIE」という。)は、give sb(目的語)his headで「人に特に仕事や計画遂行において、その人自身に決定・準備させ、その人自身のやり方でやらせること」との意味を掲げ、LDCE2は、give someone their headで「人の好きなようにやる自由を許す」との語義を掲げていること、また、アメリカの辞書では、RHD2は、give someone his or her headで「人に彼又は彼女の好きなようにやらせる、人に選択の自由を許す」の語義を掲げ、She wanted to go away to college, and her parents gave her her head.との例文を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では、右例文はI gave my horse its head.(私は馬を好きに走らせた)との例文に差し替えられたこと、右差し替えについて竹林報告書は、女性を操るとの例文が教育上好ましくないため「馬を操る」に変えたとしていることが認められる。

以上によれば、現代の英語国民はgive…'s headの熟語表現を使うことが認められ、また、英米の多くの辞書が右の熟語表現を右例文と同様の意味を示して掲載していることが認められる。もっとも、前記週刊朝日の記事によれば、英語国民の中には右例文がhad betterとwifeを組み合わせて用いていることにより卑猥な意味になると指摘する者もあることは前示のとおりであり、ライトハウスの改訂においてはこの指摘に沿う変更が加えられていることが認められるが、このことはgive…'s headの熟語表現が存在することを否定するものではない。したがって、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A49)

All clansses of people, high and low, visit the temple.(身分の高い者も低い者も、あらゆる階級の人たちがその寺院にお参りする)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付して、They searched high and low for the missing child.(彼らは、いなくなった子供をあちこち捜しまわった)との訂正例文を挙げた上、「『ライトハウス』のhigh and lowの『身分が高い者も低い者も』という表現は、まちがいではないが、まさしく階級社会(class society)用語である。……実際、high and lowなどというコトバは、英米国民の大部分から憎まれて、今ではもう死んでしまったコトバである。もはや誰も使わないであろう。」(一四四頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文に使われている語句が現代では使われないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての現代の英語国民が右例文に使われている語句を使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボリンジャー、イルソン、ウィルキンソン、アルトハウス、ボイドはいずれもOKとしていること、他方、英米の辞書では、ODCIEは、「あらゆる階級、階層の」との語義を示し、Listen, children of the world, both high and low, rich and poor. I shall speak the truth.との例文を挙げていること、Web3は、loved by all his parishioners, high and low.(身分の高い者も低い者も彼の教区民みんなから愛された)との例文を挙げていること、また、ジーニアス英和辞典では、high and lowの項目について「すべての階級の」との語義のみ掲載していること、そして、ライトハウス第二版では語義のみ残し右例文は削除されていることが認められる。

以上によれば、ライトハウスの改訂では右例文が削除されているものの、現代の英語国民はhigh and lowという表現を使うこと、また、内外の他の英語辞典にも右例文と同じ表現が同じ意味で掲載されていることが認められ、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号A50)

They were highly pleased [surprised].(彼らは非常に喜んだ〔驚いた〕)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付して、They were highly thought of [appreciated] in this school.(彼らはこの学校では大変大事にされている)との訂正例文を挙げた上、「highlyの第一番目の用法は『非常に、大きい』という『程度の副詞』で、veryに置き換わる。二番目の用法が『高く評価して、敬意をもって』である。『ライトハウス』の例文のようにhighlyを第一番目のveryの意味で使って、highly pleasedとか、highly surprisedとやるのはいただけない。こんな使い方をしてはいけない。このhighlyは、もっぱら二番目の用法で、訂正例文のようにbe highly thought ofや、be highly appreciatedのように『高く評価されている』という使い方をするのがキレイである。highlyの二番目の用法を一番目の『程度の副詞』と混同してしまうまちがいがこの国にはびこっているとすれば、それは研究社のせいである。英語圏でこんな使い方をしたら、変に思われるだけである。」(一四七頁)と記載していることが認められるところ、この本書の記載が、そもそも本書にいう第一番目の用法が間違っているとする趣旨なのか、右例文の文脈では第一番目の用法でhighlyを使うことができないとする趣旨なのか、一見したところ不明確であるといわざるを得ない。しかしながら、いずれにしても、本書の記載が英語国民が右例文に使われている語句そのものないし右例文を使わないこと及び内外の他の英語辞典に同様の用法が記載されていないことを根拠に例文が誤りであるという事実を摘示しているとみるべきことは整理番号A8の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドは、OK、まったく問題なしとしていること、ボリンジャーは、highly pleasedやhighly surprisedを用いて右例文より描写の詳しい例文を示していること、他方、英米の辞書では、LDCE1は、「高い程度まで、非常に」の語義を掲げ、highly pleased(大いに喜んで)、highly skilled(高度に熟練した)などの用例を挙げていること、これに対しその改訂版であるLDCE2は、ほぼ同様の語義を掲げつつ、highly pleasedの用例をhighly amusedに差し替えていること、OALD4は、「非常に」などの語義を掲げ、a highly amusing film(非常に面白い映画)などの用例を挙げていること、COBUILDは、highlyは形容詞の前で特別な性質が強い程度に本当であることを強調するために用いられるとし、It's an extremely simple concept in principle, though highly complex in detail…(それは原理としては極めて単純な概念であるが、細部においては非常に複雑である)などの例文を挙げていること、CED2は、highly pleased(大いに喜んだ)、highly disappointed(ひどくがっくりした)との用例を挙げていること、また、小学館英和中辞典はbe~ pleasedとの用例を挙げていること、そして、ライトハウス第二版では右例文は、The editorial was highly critical of the government.(社説は政府に対して極めて厳しかった)との例文に変更されていること、右変更について竹林報告書は分かりやすい例文にしたとしていることが認められる。

以上によれば、英語国民はhighlyを「非常に」の意味で用い右例文のように使うこと、また、右例文と同様の表現が英米の辞書にみられることが認められ、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A51)

"What's up?"――"Search me"(「何が起こったんだ」「知らないね」)

《証拠省略》によれば、新英和中辞典は、Search me.の項目で、《口語》として「私にはわからない、知るものか」との語義を掲げ、《由来「私を捜してごらん(答えは出ないよ)」の意から》として右例文を挙げているところ、本書は、右例文に×印を付して、“What's the name of that song?”“Search me.”(「あの曲の名前は何というの?」「知らないね」)との訂正例文を挙げた上、「まずはじめに、search meは『口語』ではなくてslang『俗語』である。」として「口語」と「俗語」との区別等について日本の英和辞書は現在のところすべて失敗しているとし、さらに「What's up?は『どうしたの、元気でやってるの』という挨拶の表現なのであって、What's happened?『どうした、何があったんだ?』という疑問の文ではない。……相手のご機嫌うかがいに対する返事をするものとしてはあまりに失礼だろう。」(一四九~一五〇頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、第一に右例文の「口語」との用法表示が不適切であること、第二に例文の意味が誤っていることを理由として批判するものである。そして、本書の指摘からも窺われるとおり、「口語」と「俗語」との区別についていまだ確立された基準はなく、実際、《証拠省略》によれば、英米の辞書でも、search meの用法表示について、LDEIはcolloquial' ODCIEはdated slang' LDCE2はinformal' Barronはinformalとするなど多様に分かれていることが認められることに照らせば、前者の記載については、その内容を客観的に真又は偽として性格付けをして証拠により確定することはできないといわざるを得ないから、論評に当たるというべきである。また、後者の記載が、総体としての英語国民が右例文を新英和中辞典の訳の意味では使わないという趣旨の事実の摘示であるとみうること、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは整理番号A4の場合と同様である。

そこで、まず、前者の記載について検討するに、右に摘示した部分が人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、前者の記載は公正な論評として適法であると認めることができる。

次に、後者の摘示が指摘する各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボリンジャーは、完全にOKで、被告副島がこれに対して異議を述べているのは間違ったイントネーションをしているからだろうと述べていること、ボイドは、少なくともイギリス人の耳に対してはこの英語に間違っている点は少しもないなどとしていること、ダッチャー、ウィルキンソンは、OKとし、アルトハウスも、OKとして、ここでは"What's up?"は何か(何か普通でないこと)が進行している状況で使われており、A(一番目の話者)の質問は何が起こっていようともそれについて情報を得ようとしているのに対し、B(二番目の話者)もそれについて知らないのであるなどとしていること、また、前記夕刊フジの記事では、「俗語として、よく聞く言い方だ」とされていること、他方、英米の辞書では、OALD4は、upの項目で「略式的」との用法表示の上、「(特に異常なこと、いやなこと)が起こっている」との語義を掲げ、I heard a lot of shouting-what's up?(怒鳴り声を聞いたけど――どうしたの)との例文を挙げていること、CED2は、語義として、a. what is a matter?(どうしたの), b. what is happening?(何事が起こっているの)を掲げていること、RHD2は、「起こっている」との語義を掲げ、What's up over there?(あそこで何してるの)との例文を挙げていること、Barronは、slang(俗語)との用法表示の上、「何が起こっているの、どうしたの」などの語義を掲げ、「しばしば挨拶に用いられる」としていること、そして、新英和中辞典第六版では右例文に変更はないことが認められる。

以上によれば、英語国民は、what's upを挨拶表現として用いることも多いが、What's happened?という疑問の意味でもよく使うこと、また、英米の辞書にも疑問の意味での用法が多数記載されていることが認められ、本書の前記第二の批判において摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号A52)

He won't see being used.(彼はだしに使われて黙っていまい)

《証拠省略》によれば、本書は、新英和中辞典に掲載されている右例文に×印を付して、He won't allow himself to be used.との訂正例文を挙げた上、「この'see being used'という使い方は、意味不明である。何を言いたいのかさっぱり分からない。useに『人を利用する』という特別な意味があることは分かる、seeにも『がまんする』(endure, put up with)という特別な意味と用法があることも分かる。しかし、その二つの特別な用法をぶつけて、こんな変な例文を作っているようでは、本当に世界じゅうで笑い者にされるだけである。」(一五二頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文が英語国民に通じないとして批判するものであって、この本書の記載が総体としての英語国民に右例文が通じないとする事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A1の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドは、私はこれを使わないし、イギリス英語を話す人からも聞かないが、新英和中辞典に掲載された訳の意味でこれを理解できるとし、私は個人的には用法表示なしにこの例文を載せるべきであるとは思わないが、「世界中の笑い者になる」との論評はそれ自体馬鹿げているとしていること、ダッチャーは、この例文は多分簡潔の美徳を重視しすぎたのであろうが、添えてある日本語訳が意味を明確にしていると述べていること、また、前記「英語辞書大論争」での英国の辞書会社に対する例文の適切性についての質問に対し、オックスフォード大学出版局はNOとし、コリンズも×としていること、前記夕刊フジの記事では、ネイティブ・スピーカーが「意味が分からない」との感想を述べた旨記載されていること、他方、英米の辞書では、seeについて、COD7は、「黙認する、賛成する」との語義を、Web3も「賛成する、歓迎する」などの語義を掲げていること、ジーニアス英和辞典では、He won't see being made use of.との例文を挙げ、新英和中辞典と同じ訳を載せていること、そして、新英和中辞典第六版では右例文は差し替えられていることが認められる。

以上によれば、右例文がそれ自体では多くの英語国民に通じないことが窺われ、また、若干の英米の英語辞書には右例文に用いられている意味でのseeの語義が掲載されているものがあるものの、「人を利用する」という意味のuseと、「がまんする」という意味のseeを一つの例文で用いているものはみられず、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であることが認められる。もっとも、本書の表現はかなり誇張的ではあるが、この程度の修辞は許されるものというべきである。したがって、右例文に関する本書の指摘は適法であるということができる。

(整理番号A53)

It not seldom happens that…(…ということはよくある(ことだ))

《証拠省略》によれば、本書は、新英和中辞典に掲載されている右例文に×印を付して、It often [usually] happens that…との訂正例文を挙げた上、「『めったに……しない』という否定の意味を含む副詞のseldomの熟語的用法のひとつとしてnot seldomというのが『新英和中辞典』に載っている。not seldomだから否定の否定で二重否定となって『しばしば』という意味なのだそうだが、こんな用法などふつうの英語にはない。どこか、古い英語辞書から引っぱってきたのだろう。文学的修辞的な気取りか何かの一種だろうが、こんなものは実際には使われない。」(一五三頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文が英語国民に一般には使われないとして批判するものであって、この本書の記載が英語国民が右例文を使わないとする事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボイドは、この例文は「時代遅れ」かもしれず、確かにどちらかといえば形式ばっているが、私自身はこれをしばしば(not seldom)使うとしていること、ダッチャーは、この表現は古語ではなく、現在でも書き言葉と話し言葉の両方で用いられるとしていること、ボリンジャーは、OKであるがseldomが嫌われてきていることもあって気取っているように聞こえるとし、人によってはIt not infrequently happens that…というだろうとしていること、ウィルキンソンは、このような二重否定は確かに使われているが、日本の英語教師はこれを好みすぎるとし、この用法は文語的であって会話では使われないとしていること、アルトハウスは、もちろん会話的ではないが、この例文は完全に正しい英語であるとしていること、他方、英米の辞書では、LDCE1は、The road is not seldom (= is often) flooded in winter.(その道路は冬によく水浸しになる)との例文を挙げていること、これに対し、その改訂版であるLDCE2はこの例文を削除していること、OALD4、COBUILDにもnot seldomの用例は掲載されていないこと、そして、新英和中辞典第六版では右例文に変更はないことが認められる。

以上によれば、not seldomの用法は、最近の英米の辞書では独立の項目ないし用例として掲載されていないこと、また、英語国民の間では主として文語で用いられる用法であることが窺われるが、現在では使われていないとまではいうことができず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A54)

Every night at the same hour the boys sent out their call signs.(毎晩同じ時刻に少年たちはコールサインを発信した)

《証拠省略》によれば、本書は、新英和中辞典に掲載されている右例文に×印を付した上、「この例文は『新英和中辞典(第五版)』のsend outというイディオムの三番目の『(信号を)を発信する』という用法の例文だが、これでは状況が分からない。日本人にはこれでよいかもしれないが、英語国民には、何だか奇妙な情景しか思い浮かばない。前後の脈絡がはっきりしないので、文章の意味が通じない。」(一五四頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文の状況描写が不十分なため文意が明らかでないとして批判するものであるが、例文の意味が取りにくく不適切であるか否かが論評に該当することは、整理番号A5の場合と同様である。

そこで、本書の指摘が公正な論評に当たるかについて検討するに、本書の記載は人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては、右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、本書の指摘は公正な論評として適法であると認められる。

なお、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、ボリンジャーは、右例文について、OKとしつつも、私は最初call signsについてけげんに思ったなどとしていること、また、新英和中辞典第六版では右例文は、Every night at the same time the boys sent out their call signs on the radio.に変更され、on the radio(無線で)を補っていることが認められる。

(整理番号A55)

She turned from the sight.(彼女はその光景から目をそらした)

《証拠省略》によれば、本書は、「第四章 日本英語教育の複雑怪奇な現状」中の「日本人と英米人の間の深い溝」との表題の下で、現在の英語文法学の一つである談話文法学は、言葉をその話される環境、状況、文脈の中で受容する傾向が強い点でアメリカ人的発想に基づくとした上、ライトハウスに掲載されている右例文について、「これは、正しくは、She looked away from the scene.と言うべきものだ。‥‥英米人は、こういう例文を読むと、『なぜだ?』と思う。『なぜ、彼女は目をそらしたんだ?』と考える。彼らは状況のなかで、人間の動きの流れのなかでコトバを考えようとするから、唐突に『彼女はその光景から目をそらした』という例文が出てくると、なんだか妙な感じになるようだ。」(一八八頁)などと記載していることが認められる。この本書の指摘の趣旨は、訂正例文の内容を併せ考えると必ずしも明らかではないが、文脈からして、右例文の用いられている状況の描写が不十分なため不自然な文になっているとして批判するものと認められ、例文の状況描写が不十分で文が不自然か否かが論評に該当することは、整理番号A5の場合と同様である。

そこで、本書の指摘が公正な論評に当たるかについて検討するに、本書の記載は人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては、右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、本書の指摘は公正な論評として適法であると認められる。

なお、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ボリンジャーは、OKであるが、ここでもShe turned from the sight, horrified.の方が形の上でよりはっきりするであろうとしていること、また、ライトハウス第二版では、右例文は、She turned from the horrible sight.(彼女はその恐ろしい光景から目をそらした)との例文に修正されていること、竹林は右例文は英語としては正しいがもう少し具体的にした方がいいという考えはあると思う旨述べていることが認められる。

(整理番号A56)

I want to return to my mother country.(私は母国へ帰りたい)

《証拠省略》によれば、本書は、English-Japanese Dictionary..Their Responsibility for the Poor State of English Education in Japanと題するゲルダーの辞書批判及び「日本英和辞典の責任・日本の貧しい英語教育の現状に対して」と題する被告副島の訳文を掲載し、その中でライトハウスのような辞書が利用者の期待を裏切っている部分の一つとして、どの語を収録するかについての規準が、本来は今日の英語圏の国々で一般に使われているかどうかであるべきであるにもかかわらず、曖昧にされていることを挙げ、ライトハウスは特にこの点の認識不足が目立っているとした上、右例文について、「今日この時代に'mother country'というのは、いささか時代遅れである。……アメリカ合衆国、オーストラリア、あるいはイギリスでは使う人はほとんどいない。編集者はなぜもっと適当な表現、例えば'homeland' 'native land''my own country'あるいは'home town'でもよい、これらの語を選ばなかったのだろうか。」(原文二三一頁、訳文二四五頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文が時代遅れで現在の英語国民には一般に使われないとして批判するものであって、この本書の記載が現在の英語国民が右例文を使わないとする事実の指摘であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を指摘しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウスは、OKであるがもっと一般的な語句を使ったほうがよいとしており、編集部は、my own country, my homeland, where I was bornなどのほうがよいであろうとしていること、他方、英米の辞書では、『LDCE2、OALD4、CULDは、mother countryの項目で、いずれも「自分の生まれた国」などの語義を掲げるが、OALD4、CULDは「格式的」との用法表示をしていること、そして、ライトハウス第二版では、右例文はI want to return to my hometown.(私は生まれ故郷の町へ帰りたい)との例文に変更されていること、右変更について竹林は、本書の批判は当たらないがよりよい例文にしたとしていることが認められる。

以上によれば、右例文は、現在の英語国民にとってそれほど一般的ではなく、ライトハウスの改訂に際しても結果的に本書の指摘を受け入れる形で変更されていることが認められるが、他方、英米の辞書には、独立した項目として掲載されているのであって、現在の英語国民が使わないとまでは認めることができず、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号A57)

His fair name will not be spoiled by such a trifling matter.(彼の汚れのない名声はこんなつまらないことで傷つけられはしないだろう)

《証拠省略》によれば、本書は、整理番号A56の記述に続き、「『ライトハウス』には、これ以外にもかなりの数の時代遅れの表現が、語の定義を表すために使われているが、もう一例だけ挙げておこう。」として右例文を挙げ、「おそらく、英語圏でこんなふうに話したり書いたりする人は一人もいないだろう。百年前ならこうだったかもしれないが、今なら次のような言い方をするだろう。」とし、His reputation will not be ruined [damaged, spoiled] by such a small matter.との例文を挙げていること(原文二三一~二頁、訳文二四五~六頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文が時代遅れで現在の英語国民には一般に使われないとして批判するものであって、この本書の記載が現在の英語国民が右例文を使わないとする事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、六名のネイティブ・スピーカーの意見は掲載されていないこと、英米の辞書では、fairについて、OALD3は、「汚れのない、きれいな」などの語義を掲げ、Such behaviour will spoil your fair name.(そんな振る舞いをするとあなたのいい評判が落ちますよ)との例文を挙げていること、WNWDは、「汚れのない、きれいな」との語義を掲げ、a fair name(汚れのない名声)との用例を挙げていること、他のいくつかの辞書でも同様の用例を挙げていること、ところが、ライトハウス第二版では、右例文は削除されていることが認められる。

以上によれば、右例文が、現在の英語国民に使われるか否かは必ずしも明らかではないが、英米の辞書には同様の表現がみられるのであり、他に本書の摘示する事実が真実であると認めるに足りる証拠はない。

(整理番号B1)

Little girls generally like red.(小さな女の子は大抵赤い色が好きだ)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付して、Little girls generally like pink.との訂正例文を挙げた上、「もしこの辞書が、女性を画一的な枠にはめこもうとする(ステレオタイプ化する)考えに立つというのならば、少なくとも英語世界で決まりきった言い方(常套句)ぐらいはまちがえないようにしたらどうだろう。……英語の場合はredではなくpinkなのである。」(六一頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文が英語国民に一般には使われないとして批判するものであって、この本書の記載が英語国民が右例文を使わないとする事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウスは言葉の問題ではないとしているが、イルソンは、言語としてはOKであるとしながら別の例文の掲載を提案していること、ウィルキンソンは、我々が一般に「ピンク」が女の子を連想することには同意するとしていること、また、前記モーエンの意見は、右例文も訂正例文もともに正しいが、たぶん訂正例文の方が望ましいであろうとしていること、ライトハウス第二版では、右例文に変更はないことが認められる。

以上によれば、英語国民は女の子といえばredよりはpinkを連想することが窺われるが、訂正例文の用法が常套句であって右例文は使われないとまでは認めることができず、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号B2)

(1) the gloom of old people(老人たちの憂鬱)

(2) She fell into gloom.(彼女は意気消沈した)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右各用例に△印を付した上、「最初の例におけるgloomの用例は老人への先入観に満ちた例句である。なぜ老人たちが憂鬱でなくてはならないのか。老人は憂鬱なのがふつうだとでも言いたいのか。健康であれば、老人だって、元気がいいのに。二番目の例文は形容詞のgloomyの方がより適切である。」として、She fell into a gloomy mood.との訂正例文を挙げていること(七四頁)が認められる。このように、本書は、(1)の用例については先入観に基づく内容であるとして、また、(2)の例文については例文に用いられている単語が不適切であるとして批判するものである。このうち、前者の記載は、ある例文が先入観に基づく内容であるか否かは客観的に真又は偽としての性格付けをして証拠により確定できる性質のものとはいえないから、論評に該当する。また、後者の記載が、英語国民が右例文を使わないとする事実の摘示であるとみうること、また、その場合も補充的に内外の他の英語辞典との比較の上で例文が誤っているという事実を摘示しているとみるべきことは、整理番号A4の場合と同様である。

そこで、(1)についての記載について検討するに、右に摘示した部分が人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、前者の記載は公正な論評として適法であると認めることができる。

また、(2)についての記載が摘示する各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右各例文について、言いがかりに近いとするのみで、(2)の例文に関するネイティブ・スピーカーの論評は記載されていないこと、ライトハウス第二版では、右例文について変更はないことが認められる。

以上によれば、英語国民が右例文をあまり使わないとも、英米の辞書との比較から右例文が不適切であるとも認められず、本書の(2)の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号B3)

We won [lost] the game by a score of 8-0.(我々はその試合に八対〇のスコアで勝った〔負けた〕)

《証拠省略》によれば、本書は、「gameという語を、研究社の『ライトハウス』と大修館書店の『ジーニアス』がどのように扱っているのかを比較してみる。すると明白な結論として、『ライトハウス』は「ジーニアス』の半分しかスペースを割いていない。もう少しよく調べてみると『ライトハウス』の例文は『ジーニアス』の例文の水準に達していないことが分かる。」とした上、「ライトハウス」は、「試合」という意味では右例文しか掲載していないのに対し、「ジーニアス」は、win/lose a game(試合に勝つ/負ける)の説明に加え、同じ話題について、How goes the game?(勝負の形勢はどうだい)、The game is three all.(得点はスリーオールだ)、The Mets put the game away with two more runs in the seventh.(メッツは七回にもう二点加えて試合の大勢を決めた)との三種類の例文を示している旨記載していること(七六頁)が認められる。このように、本書は、ライトハウスが「試合」という意味では右例文しか掲載していないことを前提として、ライトハウスはジーニアスに比べgameという単語の扱いが少なすぎ、例文も十分でないことを理由に批判するものである。そして、ライトハウスが「試合」という意味では右例文しか掲載していないことは事実に該当するが、単語の扱いが少なすぎ、例文が十分か否かが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

そこで、まず右事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、ライトハウスは、gameの項目で、二番目の語義として「試合、競技、勝負」を掲げ、その例文として右例文の他に、a game of baseball(野球の試合)、a drawn game(引き分け試合)、We played a basketball game.(我々はバスケットボールの試合をやった)、He plays a good [poor] game of cards.(彼はトランプがうまい〔下手だ〕)を挙げていることが認められ、本書がこれらを記載していないことは読者を誤解させるおそれがあり、論評の前提として必ずしも適切でない。しかしながら、本書の意図するところは、ライトハウスがジーニアスと比較して、「試合に勝つ・負ける」との話題におけるgameの用法が十分載っていないことを指摘する点にあることが認められるから、これらのライトハウスに掲載されている例文を記載しなかったことをもって、本書の摘示する事実が真実であると認めて妨げない。

また、本書の右に摘示した部分は、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、また、被告副島としては右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、公正な論評として適法であると認めることができる。

なお、《証拠省略》によれば、ライトハウス第二版では、gameの項目で、本書の右指摘内容に関し、In the third inning the game was tied (four to four).(三回には(四対四の)同点だった)との例文を追加していることが認められる。

(整理番号B4)

We were all gratified with [at] the result.(我々はみなその結果に満足した)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、We were all gratified with [by/at/to hear] the result.との訂正例文を挙げた上、「『ライトハウス』は、このto be gratified『満足する』だけでなく、もっと一般的にto be surprised, to be pleasedのような動詞句のあとにくる前置詞を勝手に決めつけている。……冒頭の例文ではgratifiedの後にbyがくることもあることを示していないし、またto+不定詞がくることもあることを述べていない。」(七七頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文の中で用いることが可能な前置詞等を十分示していないとして批判するものである。そして、本書の示す前置詞等を右例文の中で用いることが可能か否かは事実であるが、例文で用いることのできる前置詞等を辞書に掲載しないことをもって当該辞書が不十分であるといえるか否かは論評に該当するというべきである。

そこで、まず、右事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、右例文について、ウィルキンソンが、彼の提示する代替案はすべて可能であることは事実であるとしていること、ライトハウス第二版では、右例文はWe were all gratified with [at, by] the results.と変更されていることが認められる。したがって、本書の示す前置詞等を右例文の中で用いることが可能であるとの事実が真実であることが認められる。

また、本書の右に摘示した部分は、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、被告副島としては右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、公正な論評として適法であると認めることができる。

(整理番号B5)

ground

《証拠省略》によれば、本書は、「groundに関するイディオムは、『ライトハウス』『ジーニアス』の両辞書をこのように比較してみると一目瞭然だ。『ライトハウス』の方では明らかに無視されているものがある。それらを拾い上げて列挙してみよう。」とした上で、1 kiss [bite] the ground (= bite the dust = to be killed or died)(死ぬ、殺される、ダメになる)、2 go over [cover] old ground(陳腐な話を蒸し返す)、3 from the ground up(完全に、徹底的に、最初から最後まで)、4 get off the ground(離陸する、<計画などが>うまくスタートする)、5 happy hunting ground(ほしいものがいっぱいある場所)、6 middle ground(折衷案、妥協)、7 off the ground(飛行中で、進行中で)、8 on home ground(よく知っている領域)、9 run [go] to ground(<キツネが>穴に逃げ込む、身をかくす)、10 run~to ground(<人・物>を探し出す)、11 stamping ground(よく行く場所)、12 wipe the ground with(<相手>をこっぴどくやっつけて恥をかかせる)の各用例を列挙している(八一頁)。このように、本書は、主として重要な熟語が十分載っていないとして批判するものであって、本書の示す熟語がライトハウスに載っているか否かは事実であるが、それを掲載しないことをもって当該辞書が不十分であるといえるか否かは論評に該当するというべきことは、整理番号A16の場合と同様である。

そこで、まず、右事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、ライトハウスには、本書の指摘する熟語のうち、3、4及び9のgo to groundは、いずれもgroundの熟語欄に、1のkiss the groundはkissの熟語欄に、5は独立の項目として(ただし、語義は「アメリカインディアンの天国」としている。)、11も独立の項目としてそれぞれ掲載されていることが認められるから、本書の摘示する事実が真実であるとはいえない。

(整理番号B6)

This place has grown on me.(この土地は私の気に入るようになった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付し、I didn't like rock music at first, but it has grown on me.(私は最初ロックミュージックは好きではなかったが、気に入るようになった)との訂正例文を挙げた上、「『ライトハウス』の例文では何のことだか意味がさっぱり分からない。訂正例文の方は福武書店の『プロシード』からのものである。……この例文なら、利用者はgrown onの用法がよく分かるだろう。この語は『はじめは…だったのが、あとから…になる』という使い方をする。前半部分が抜けてしまうと意味をなさない文になってしまうのである。」(八三頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文に使われている単語の用法が不適切であることを理由として批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が通常右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことの各事実を前提に例文が誤りである旨摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A12の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、アルトハウス、ボイド、ボリンジャー、イルソン、ウィルキンソンは、いずれもOKとしていること、また、前記モーエンの意見は冒頭例文も訂正例文も正しいとしていること、そして、ライトハウス第二版では右例文は変更されていないことが認められる。

以上によれば、右例文が通常英語国民に用いられないとはいえず、また、内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないか否かは明らかでないのであって、本書の摘示する事実が真実であると認めることはできない。

(整理番号B7)

(1) I guessed her age as forty.

(2) I guessed that she was forty.(私は彼女の年を四〇歳と見当をつけた)

《証拠省略》によれば、ライトハウスは、guessの項目で、I guessed her age at forty.<V+O+at+名・代>=I guessed her to be forty.<V+O+C(to不定詞)>との記載をしているところ、本書は、冒頭の各例文を挙げ、これらの四つの例文はすべて正しい文でよく使われている表現であるとし、ライトハウスには冒頭の各例文が載っていないのに対し、ジーニアスでは四つとも載せているなどと記載した上、ライトハウスとジーニアスの該当箇所のコピーを掲載していること(八五頁)が認められる。このように、本書は、主としてライトハウスが例文の言い換え表現を十分示していないとして批判するものであるところ、本書の示す言い換え表現を用いることが可能か否かは事実であること、可能な言い換え表現を辞書に掲載しないことをもって当該辞書が不十分であるといえるか否かが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

そこで、まず右事実の真実性について検討するに、原告は、第五別紙7を引用して冒頭例文に関する本書の指摘が名誉毀損に当たるとするが、その中で、冒頭例文につき前示のような言い換え表現が可能であることは自認しており、また、《証拠省略》によれば、ライトハウス第二版では、(2)の例文が加えられていることが認められるから、本書の摘示する事実が真実であるというべきである。

また、本書の右に摘示した部分は、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、被告副島としては右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、公正な論評として適法であると認めることができる。

(整理番号B8)

Mrs. Ichikawa spent her life combating for women's rights.(市川女史は女性の権利のために戦って一生を終えた)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付し、Mrs. Ichikawa spent her life fighting for women's rights.及びMrs. Ichikawa spent her life combating [combating against] discrimination against women.(市川女史は女性差別と戦って一生を終えた)との訂正例文を挙げた上、「combat『戦う』という動詞を自動詞で使うときは、'combat for目的・対象against/with敵'という風に使うのである。だから、冒頭の例文は市川女史は『女性の権利のために』『女性の権利を獲得する目的に向かって』戦ったのだから、fight forとしなければならない。どうしてもcombatを使いたければ二つ目の訂正例文のようにcombating discrimination against women『女性に対する差別と戦う』とするしかないだろう。……もし、自動詞として使うのならば、combating against discrimination against womenとするしかないだろう。」(一一七頁)などと記載していることが認められる。このように、本書は、主として右例文に使われている単語の用法が間違っていることを理由として批判するものであるが、これを読んだ読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、その文脈に照らし、英語国民が右例文のような使い方をしないこと及び内外の英語辞典に右例文と類似の用法が掲載されていないことの各事実を前提に例文が誤りである旨摘示する趣旨であるとみるべきことは整理番号A12の場合と同様である。

そこで、右各事実の真実性について検討するに、原告は、英米人からみると本書の指摘に一理あると認めうるが、完全に間違いであるとは断定できない旨主張しているところ、《証拠省略》によれば、まず、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の中で、右例文について、ウィルキンソンは、私は'combat for'が好きではないが、まったく使われないといえるかどうかははっきり分からないとしていること、編集部は、fightが普通なのは当たり前だがcombatが見出しであるなどとしていること、また、ライトハウス第二版では右例文は削除されていること、右削除について、竹林報告書は、LDCE1、ではcombatの項目で自動詞と他動詞が載っていたが、その改訂版であるLDCE2では他動詞だけとなり、格式語として載っていることから、頻度も少なくなったと判断して削除したとしていること、竹林は、名詞としてのcombatの項目の記載を増やした関係で動詞の記述を減らしたとしていることが認められる。

以上によれば、英語国民が右例文のような使い方を通常しないことが認められ、また、内外の英語辞典の記載は必ずしも明らかではないが自動詞としてのcombatの記述は減少する傾向にあることが窺われる。したがって、本書の摘示する事実は真実であると認められ、右例文に関する指摘は適法であるということができる。

(整理番号B9)

hangover(残り物、過去の遺物、二日酔い)

《証拠省略》によれば、本書は、「hangoverが名詞で『二日酔い』だということは、英語を生活の一部としている人なら誰でも知っている。……ところが、ただ単に語義を示しただけという『ライトハウス』の不親切な記述では、『二日酔い』という日常ありふれたコトバひとつ、きちんと使えるようにはならないのだ。この語がただポツンと載せられていることに象徴されるように、徹底的なあいまいさに支えられているのである。」(一四一頁)などと記載していることが認められる。なお、本書は右単語についてSHOULD BEOMITTED(省略されるべき)と分類しているが、右記載内容からして誤記と認められる。このように、本書は、ライトハウスのhangoverの扱いが簡単すぎるとして批判するものであるが、ある単語の扱いが簡単すぎるか否かが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

そして、本書の右に摘示した部分は、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものとはいえず、被告副島としては右論評を正当と信じて行ったことは明らかであるから、公正な論評として適法であると認めることができる。

(整理番号B10)

He never keeps his word.(彼はいつも約束を守らない)

《証拠省略》によれば、本書は、前記整理番号A56記載のゲルダーの辞書批判及び被告副島の翻訳文の中で、ライトハウスには、ある表現を載せていながら、それと相互の関係が深く使用頻度もほとんど同じ他の表現を省略してしまっている例もあるとし、例えば、He never keeps his promiss.との例文を掲載しているのに、冒頭例文を載せていないなどとして、辞書の編集者たちはもっと慎重な選択をすべきであるなどと記載していること(二三二~三、二四七頁)が認められる。このように、本書は、ライトハウスに重要な例文が掲載されていないとして批判するものであって、冒頭例文が掲載されていないことが事実に当たり、また、掲載しないことが辞書として不適切であるか否かが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

そこで、右事実の真実性について検討するに、《証拠省略》によれば、ライトハウスのkeepの項目には冒頭例文の記載はないが、wordの熟語欄に記載があることが認められるから、本書が冒頭例文を掲載していないと摘示するのは真実とはいえない。

2  編集方針等を批判する部分について

(一) 整理番号C5、8、22について

(1) 本書が、「はっきりと言っておく。研究社の『新英和中辞典(第5版、一九八五)』'New Collegiate English-Japanese Dictionary 5th Edition'と『ライトハウス英和辞典(一九八四)』'Lighthouse English-Japanese Dictionary'の二冊の中の全英語例文のうち約二〇%は、使いものにならない。不適切である。そして、なかでも五%前後は、完全にまちがいである。メチャクチャである。誰が、いったい、どういう経緯で、これほどのひどい偽文造文作業を、るいるいと成してきたのか?」(一二頁、整理番号C5)、「したがって、ここに挙げた誤文例文だけですべてだと思ったら大まちがいである。『ライトハウス英和辞典』と『研究社新英和中辞典(第五版)』……の誤文例文は、この辞典の全面にゆきわたって、まんべんなく散りばめられている。不適切例文まで算入したら、全体の二〇%は、差しかえなければならないだろう。いやこの「差しかえ」という小手先の改竄思考そのものが、この二冊の辞書の例文をここまでひどいものにしてしまった辞書編集部の内部の事情なのであろう。」(一六頁、同C8)、「そして、『ライトハウス』の全例文のうちの約二割は不適切ないし完全な誤文(wrong sentences)であるという……」(一二〇頁、同C22)などと記載していることは当事者間に争いがない。このように、本書は、本件両辞典に掲載されている全英語例文のうち約二〇パーセントは使い物にならない不適切な例文であり、五パーセント前後は完全に間違いであることを指摘するものである。ところで、本書が、整理番号C5、8に続く部分で、本件両辞典の具体的例文について、英語国民が使わないこと、英語国民に通じないこと、時代遅れであること、内外の英語辞典に同種の語義、例文が掲載されていないこと、例文に用いられる単語の意味や用法が適切でないこと、例文の描写が不明確なため意味が不明であること、重要な単語の用法、例文が十分載っていないことなどを理由に誤っているか又は不適切である旨批判していることは前示のとおりであり、一般読者の普通の注意と読み方とを基準とすれば、本書が、本件両辞典の全英語例文のうち約二〇パーセントは使い物にならない不適切な例文であり、五パーセント前後は完全に間違いであると指摘する根拠も、右の各事由であることが認められる。右各事由は、事実の摘示又は論評のいずれかに該当するものであるが、五パーセント前後は完全に間違いであるとの指摘は、英語国民が当該例文を全く使わず、内外の英語辞典にも同種の語義、例文が全く掲載されていないことなど事実に該当する事由のみを暗示させるものであるから、右指摘が適法となるには、本件両辞典の例文のうち完全に間違いであるといえるものが五パーセント前後存在していることが真実であることが必要となる。これに対し、例文のうち約二〇パーセントは使い物にならない不適切な例文であるとの指摘は、事実に該当する事由だけではなく、例文の描写が不明確なため意味が不明であること、重要な単語の用法、例文が十分載っていないことなど論評に該当する事由をも暗示させるものであるが、前記認定事実によれば、例文の誤り等を指摘する部分六七個のうち論評を含むとされたものは一七個にとどまり、右批判の力点は、事実に該当する事由を中核として、これを基礎とし又は背景とした批判的な意見表明を行うことにあるものと認められるから、結局、例文のうち約二〇パーセントは使い物にならない不適切な例文であるとの指摘が適法といえるためには、少なくとも本件両辞典の全英語例文のうち論評に該当する事由により批判するものを除いた部分、すなわち約二〇パーセントを若干下回る割合の例文が、何らかの事実に該当する事由により使い物にならない不適切な例文に当たるとの事実が主要な部分において真実であることが必要となる。そして、摘示された事実が真実であるとして適法とされたものについては、その記載内容に応じて不適切な例文又は間違った例文の数に算入するのが相当であるが、個々の指摘が適法であるとは認められない場合であっても、別の観点から例文自体が誤っているなど客観的にみて当該例文が不適切ないし間違っていると認められるときは、不適切な例文ないし間違った例文の数に算入すべきことは当然である。

もっとも、《証拠省略》によれば、本書の編集人である被告石井としては、ここにいう五パーセント前後ないし約二〇パーセントという数字が、統計的な正確さを持ったものではなく、間違いの例文や不適切な例文が多いということを示す、「嘘八百」や「白髪三千丈」の類の比喩的表現であると認識していることが認められ、これを前提にすると、整理番号C5、8、22の指摘部分は全体として論評に当たるとする見方も考えられなくはない。しかしながら、《証拠省略》によれば、本書発行直後の新聞、雑誌の報道では、読売新聞が「例文の二割不適切」、夕刊フジが「偽文造文、全体の二〇%差しかえ必要」、週刊文春が「例文の二〇%はデタラメだ」との小見出しをそれぞれ掲載しており、他の新聞、雑誌も本文中で本書の右指摘部分を引用しており、比喩とは捉えられていないことが認められ、これらの事実に加え、本書が挙げる具体的数字が実際にありうる数字であること、約二〇パーセントが不適切と明記している部分が合計三か所に及んでいること、現に本書は多数の誤文、不適切文の指摘をしつつこれがすべてではない旨記載していること(整理番号C8)などをも考慮し、読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すれば、右指摘部分が単なる比喩的表現であるとは認めることができない。

(2) そこで、まず、第三別紙記載の各例文(整理番号A及びBの各例文)についてみるに、前記第三の五1における認定及び判断によれば、合計六七個の例文中、公正な論評に当たると認められるもの九個(整理番号A5、15、16、54、55、B3、4、7、9)を除く五八個のうち、本書の誤りないし不適切との指摘が事実の摘示に該当し、かつ、その主要な部分が真実であると認められるものは、整理番号A2、3、11、13、27、39、42、47、52、B8の一〇個である(整理番号A2は本書の摘示事実自体は真実とは認められないが、例文が不適切であることは前示のとおりであるから、ここに含める。)。そして、そのうち、英語国民が全く使わず、内外の英語辞典にも同種の語義、例文が全く掲載されていないなどの事実が真実であるとして当該例文が完全な間違いであるといえるものは、ひとつもないことが認められる。

(3) 次に、本書において誤りないし不適切であると指摘する例文のうち、第三別紙記載のもの以外の第八別紙記載の例文一八個(整理番号D1ないし18)について、本書の指摘が事実に該当し、かつ、その主要な部分が真実であるといえるかを中心に簡単に検討する。

(整理番号D1)

The children went affter the parade.(子供たちはパレードの後について行った)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付した上、go after(すぐその後に続いていく)の用法が間違っていることを理由に批判していること(四七頁)が認められる。そして、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、ボイドがOKとするのに対し、アルトハウスはいい例文ではないとしていること、堀内の前記雑誌論文でも改めた方がよい例とされていること、ライトハウス第二版では、右例文は、A squad car went after his car.(パトカーが彼の車の後を追った)との例文に差し替えられていることが認められ、本書の摘示する事実は主要な部分で真実であるということができる。

(整理番号D2)

The police was unable to get anything out of the woman.(警察はその女から何も聞きだせなかった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、policeは複数の意味を内包する使い方をするから次の動詞は複数形をとるとして、その用法が間違っていることを理由に批判していること(六四頁)が認められる。そして、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、wasをwereに訂正するとしていること、原告自身明らかな誤植としていることが認められ、右例文は間違っており本書の指摘する事実は真実であるということができる。なお、《証拠省略》によれば、平成元年発行のライトハウス初版第五三刷では、すでにwasがwereに訂正されていることが認められ、仮に右訂正が本書の発行される前に完了していたとすれば、右例文を間違っている例文として数に算入するのは相当でないというべきであるが、本書が平成元年一〇月二四日に発行されたことは前示のとおり当事者間に争いがなく、この時点で右訂正が完了していたとまでは断定できない。しかも、後記の整理番号D9、10の記載内容にかんがみると、被告副島は、本書の執筆に当たり、昭和六三年発行のライトハウス初版第四二刷を参照していることが窺われ、一応最新に近いものを検討しているのであって、これをもとに批判をすることは許容されるというべきである。

(整理番号D3)

The train got through the tunnel.(列車はトンネルを通過した)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、get throughが「ある行為の完了」を意味しており、「時間や労力を必要とする何かを最終的にやり遂げた」というニュアンスを伴うことが多いにもかかわらず、右例文はget throughの持つ状況的な意味と用法を十分に示していないため、文意があいまいであるとして批判していること(七〇頁)が認められ、文意があいまいであるか否かが論評に該当することは、整理番号A5の場合と同様である。

(整理番号D4)

In Japan stockings and women have grown stronger since the war.(戦後日本は靴下と女性が強くなった)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付した上、女性と靴下とを結びつけた内容において低劣であるとして批判していること(八二頁)が認められ、例文の内容が低劣であるか否かは、客観的に真又は偽としての性格付けをして証拠により確定できる性質を有するものとはいえないから、論評に該当する。

(整理番号D5)

We will have guests to [at] dinner tomorrow.(うちではあす夕食に客を招待する)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付した上、have guests to [at] dinnerという表現は間違いではないが、英語圏で最もよく使われるのは前置詞forを用いる形であるのに省略されているとして批判するものである(八六頁)が、重要な前置詞の用法が掲載されていないことを批判することが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

(整理番号D6)

The paper flew off his hand.(彼が持っていた新聞が風で飛んだ)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、誤文であってout of his handとしなければならないとして、例文で用いている単語の用法が間違っていることを理由に批判していること(九五頁)が認められる。そして、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、「offをout ofに変えます」としていること、原告自身明らかな誤植と認めていること、現にライトハウス第二版では、offをout ofに訂正していることが認められるから、右例文は間違っており、本書の摘示する事実は真実であるということができる。

(整理番号D7)

I don't want an air trip if I can help it.(できれば空の旅はしたくない)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、air tripという表現は現代英語ではもし使われるとしても非常に稀であるとして批判していること(一〇一頁)が認められる。そして、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、アルトハウス、ボイドはともに間違っている点は何もないとしているのに対し、編集部は「もっと適例に替えるほうがよいかもしれない」としていること、前記夕刊フジの記事では、ネイティブ・スピーカーの大学教授がアメリカでは絶対使わないとしていること、ライトハウス第二版では、右例文は、I don't want to go by plane if I can help it.(できれば飛行機で行くのはやめたい)との例文に変更されていること、右変更について竹林報告書は高校生にも分かりやすい表現に改めたとしていることが認められる。以上によれば、英語国民が右例文のような使い方をあまりしないことが認められ、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であるということができる。

(整理番号D8)

There spread wild scenery before us.(我々の前には荒涼とした景色が広がっていた)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に△印を付した上、文の構造が普通でなく、わざわざ複雑な内容になっており、わかりにくいなどとして批判しており(一一二~一一四頁)、これが論評に当たることは整理番号A15の場合と同様である。

(整理番号D9)

The girls were all excited as the thought of meeting the actor.(少女たちはその俳優に会いに行こうと夢中になっていた)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、これを誤植であるとしつつ、「ライトハウス」八八年版(第四二刷)ではasがatに訂正されているなどとしていること(一一九頁)が認められる。このように過去の版で間違っていた例文が新しい版において訂正されていることを指摘すること自体は不法行為を構成するものではないが、本書執筆時に訂正済みの例文を誤っているないし不適切な例文の中に算入するのは相当でない。

(整理番号D10)

Who is your most favorite singer?(あなたのいちばん好きな歌手はだれですか)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、favoriteには最上級の意味を含んでいるからmostをつけるのは誤りであるが、「ライトハウス」八八年版(第四二刷)ではmostが削除され訂正されているなどとしていること(一二一頁)が認められる。このように本書執筆時に訂正済みの例文を誤っているないし不適切な例文の中に算入するのは相当でない。

(整理番号D11)

He threw a dish in a fury of anger.(彼はかっとなって皿を投げた)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、furyの中に「激怒」の意味が入っているのに、さらにanger「怒り」を加えるのは誤りであるなどとして批判していること(一二四頁)が認められる。そして、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、ウィルキンソンがこの例文は良くないなどとしていること、ボイドは例文の訳文が弱すぎるように思われるとし、右例文は自制心を全く失ってしまった状態を示唆しているなどとしていること、ライトハウス第二版では、右例文は、He threw a dish in a fury.との例文に差し替えられていること、竹林報告書では右変更について減行のためであるとしていること、しかし右例文に充てられている行数は初版も第二版も二行で変化がないことが認められる。以上によれば、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であるということができる。

(整理番号D12)

Their schemes to kidnap the girl was discovered.(彼らが少女を誘拐しようとしたたくらみが露見した)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、schemesが複数形で使われているから、動詞はwereでなければならないなどとして批判していること(一三二頁)が認められる。そして、《証拠省略》によれば、原告自身明らかな誤植としていることが認められ、右例文は間違っており本書の指摘する事実は真実であるということができる。なお、《証拠省略》によれば、平成元年発行のライトハウス初版第五三刷では、schemesがschemeに訂正されていることが認められるが、右例文を間違った例文として数に算入することができることは、整理番号D2の場合と同様である。

(整理番号D13)

Sounds hit the eardrums.(音は鼓膜に当たる)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文に×印を付した上、日本人の造文であるなどとして批判しているが(一四八頁)、その趣旨は英語国民が右例文を使わないとする事実を指摘する点にあることが認められる。そして、《証拠省略》によれば、前記「『欠陥英和辞典の研究』の分析」では、ボイドは問題ないとしているのに対し、ウィルキンソンは、この例文は不自然に聞こえるが例示されている用法は全く正しいなどとしていること、また、前記「英語辞書大論争」の中での右例文の適切性についての英国の辞書会社に対する質問に対し、オックスフォード出版局はぎこちない文であるが考えうるとしており、コリンズはありそうにない使い方であるとしていること、ライトハウス第二版では全く異なる例文に差し替えられていること、竹林報告書は右差し替えについて、文章の一節から引用したもので分かりにくいため分かりやすい例文に差し替えたとしていることが認められる。以上によれば、右例文はあまり使われないものであることが認められ、本書の摘示する事実は主要な部分において真実であるということができる。

(整理番号D14)

It was the worst heat wave that the nation ever seen.(かつてその国民が出くわしたこともないような猛烈な熱波だった)

《証拠省略》によれば、本書は、新英和中辞典に掲載されている右例文に×印を付した上、It was the worst heat wave that the nation had ever seen.との訂正例文を示し、hadが脱落していることを指摘していること(一五一頁)が認められる。そして、《証拠省略》によれば、原告自身誤植であるとしていることが認められ、右例文は間違っており本書の摘示する事実は真実であると認めることができる。

(整理番号D15)

His wife was shocked to find bright red lipstick on his collar.(彼の妻は彼の襟に鮮やかな赤い口紅のあとを見てぎくっとした)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文について、ライトハウスには形容詞shockedの用法としてto+動詞(不定詞)の例文しか載っていないが、at、by、aboutなどの前置詞もとれるとし、「『ライトハウス』で欠落していると思われる用例を列挙しておく」などとして批判するものであるが(一五七頁)、重要な用例が掲載されていないことを批判することが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

(整理番号D16)

The boat was upset by the wind.(ボートは風で転覆した)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文について、ライトハウスにはbyを使った例文しか載っていないとし、about、over、by、to+動詞(不定詞)を使った例文六個を掲載して批判するものであるが(一五八頁)、重要な用例が掲載されていないことを批判することが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

(整理番号D17)

They were scared at the sight of the stranger.(彼らは見慣れぬ人を見てびっくりした)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文について、ライトハウスにはこの他にawayとfromを使った例文しか載っていないとし、of about、by、offを使った例文四個を掲載して批判するものであるが(一五九頁)、重要な用例が掲載されていないことを批判することが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

(整理番号D18)

I am satisfied with my new house.(私は新しい家に満足している)

《証拠省略》によれば、本書は、ライトハウスに掲載されている右例文について、ライトハウスにはこの他にofとthat~を使った例文しか載っていないとし、by、about、as toを使った例文三個を掲載して批判するものであるが(一五九頁)、重要な用例が掲載されていないことを批判することが論評に該当することは、整理番号A16の場合と同様である。

(まとめ)

以上によれば、整理番号Dの例文一八個のうち、事実の摘示に該当し、かつ、その主要な部分が真実であると認められるものは八個存在することが認められ、そのうち間違いであると認められるものは四個となる。

(4) ところで、本件両辞典に掲載されている英語例文の総数は、証拠上必ずしも明確でないが、《証拠省略》によれば、本書がすべての見出し語を調べあげたとするライトハウス初版のGの部の例文数は、一八九七個であることが認められる。そして、本書が批判する各例文の前記検討結果を総合すれば、ライトハウスのGの部の例文のうち、本書の指摘が事実の摘示に該当し、かつ、その主要な部分において真実であるといえるものは、整理番号A2、3、11、13、D1、2の合計六個であり、そのうち間違いであるものは整理番号D2の一個であることが認められるから、不適切な例文の割合は〇・三二パーセント(6÷1897=0.0032)、間違っている例文の割合は〇・〇五パーセント(1÷1897=0.0005)と算定される。

また、本書の批判する八五個(整理番号Aが五七個、同Bが一〇個、同Dが一八個の合計)の例文のうち、実際にも本書の指摘が事実の摘示に該当し、かつ、その主要な部分において真実であるといえるものは、ライトハウスについて一六個、新英和中辞典についてわずかに二個(整理番号A52、D14)であることが認められるが、いずれもライトハウスのGの部のみの例文数と対比しても、本書の指摘する約二〇パーセントを若干下回る割合ないし五パーセント前後との数値にははるかに及ばない。そして、被告副島は本書において例文を選りすぐって批判しているにもかかわらず、事実の摘示を含むと認められるもの七二個についてその事実が真実であるとされた割合は二五パーセント(18÷72=0.25)にとどまることをも考慮すると、本書の批判するもの以外に間違ったないし不適切な例文があったとしても、本書の指摘する数値には到底及ばないものと認められる。

もっとも、《証拠省略》によれば、ライトハウス初版のGの部の例文一八九七個中、第二版で変更されたものは一四四個(七・六パーセント)、削除されたものは三一九個(一六・八パーセント)、合計四六三個(二四・四パーセント)であり、Rの部の例文三一七三個中、第二版で変更されたものは四一七個(一三・一パーセント)、削除されたものは六一六個(一九・四パーセント)、合計一〇三三個(三二・六パーセント)であることが認められる。しかしながら、他方において、《証拠省略》によれば、第二版では収録語数が初版の約四万四〇〇〇語から約六万語に増加し、新たに単語の記憶欄、日英語義比較欄、形容詞の文型表示、関連語欄を設けるなどしたことから、例文を削除し又は短い例文に変更して減行する必要が生じたこと、初級の学習者にも分かりやすい例文に変更したり、最新の英米の辞書を参照して頻度の少なくなった語の例文を削除するなど、もとの例文が必ずしも不適切又は間違っているとは断定できないものも多く存在することが窺われるから、変更削除の例文数の割合をもって、直ちに本件両辞典の不適切ないし間違った例文の割合を推認することは相当ではない。

また、《証拠省略》によれば、アメリカ及びカナダで英語辞書の編集を行っている辞書学者Thomas M. Paikeday(以下「パイクデイ」という。)が全国語学教育学会の発行する雑誌論文の中で、ライトハウス第二版について、「この辞書を拾い読みしてみると、あちこちに一ページにつき二~三個の割合で、不自然な例文に出会う。」として、Aで始まる単語の例文についていくつかの事例を挙げていることが認められる。しかしながら、パイクデイが直接批判の対象としているのはライトハウス第二版のみであって本件両辞典ではなく、また、ライトハウス第二版の全体にわたって例文の適切性につき検討したものか否かは、必ずしも明らかでない。さらに、仮にパイクデイの述べるとおり一頁につき二、三個の割合で不自然な例文があったとしても、《証拠省略》によれば、ライトハウス初版のGの項目五四頁に掲載されている例文数は一八九七個、Rの項目八七頁に掲載されている例文数は三一七三個であることが認められ、一頁当たりの例文数は三五ないし三七個程度であることが推定されるところ(1897÷54=35.13、3173÷8=36.47)、これは第二版においてもそれほど変わりはないとみられるから、これらの点にかんがみれば、ライトハウス第二版の例文が不自然である割合は、パイクデイの意見によっても高々八・六パーセント程度(3÷35=0.086)であることが窺われる。したがって、パイクデイの指摘は前記認定及び判断を左右するものではない。

そうすると、本件両辞典に掲載されている全英語例文のうち五パーセント前後は完全に間違いであるとの本書の摘示する事実が真実であるとは到底認められないことはもとより、約二〇パーセントは使い物にならない不適切な例文であるとの指摘も、論評に該当する事由により批判する部分を除き、指摘の中核となっている事実が主要な部分において真実であるとはいえない。

(二) 整理番号C5、8、22以外のものについて

(1) 次に、第六別紙記載の表現及び前記整理番号C5、8、22以外の第七別紙記載の表現についてみるに、《証拠省略》によれば、これらの表現は、大きく分けて、一般的に本件両辞典の例文の誤り等が多いことを前提とするもの(第六別紙及び第七別紙の整理番号C1ないし4、6、7、9、10、19、28ないし34)と、個別に指摘した例文の誤り等を前提とするもの(第七別紙の整理番号C11ないし18、20、21、23ないし27)の二つに分類することができる。さらに、それぞれについて、① 本件両辞典は間違いだらけで使い物にならないこと、② 原告及び本件両辞典を編纂した英語学者と英文校閲者は無能であること、③ 本件両辞典は絶版にすべきことを内容としている。そして、これらの記載内容は、客観的に真又は偽としての性格付けをして証拠により確定できる性質を有するものとはいえないから、論評に該当するというべきである。そして、個別に指摘した例文の誤り等を前提とするものの趣旨も、個別の例文自体を批判するというよりは、個別の例文の誤り等を踏まえて、本件両辞典を全体として批判するものであるから、論評の主題は全体に共通するものといえる。したがって、公正な論評に当たるか否かの判断は、全体について一括して行うのが相当である。

(2) ところで、ある論評が人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものではなく、表現行為者が当該論評を主観的に正当と信じて行ったものである限り、公正な論評として不法行為を構成しないことは前示のとおりである。そして、《証拠省略》によれば、本件において、被告副島が本書の論評を主観的に正当と信じて行っていることは明らかであり、また、他の被告らも、被告副島が昭和五九年ころに被告会社からその著作を出版して以来、その出版物が読者から好意的に受け入れられてきた実績があること、被告副島が外国の銀行に勤務しその後予備校の英語講師を勤めてきた経歴を有し、英語国民と流暢に英語で会話するなどの実力を持つことなどから、本書の論評を主観的に正当であると信じていたことが認められる。

そこで、本書の論評が人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱するものであるか否かについて検討するに、まず、本書の論評は第六別紙、第七別紙に記載したとおりであるが、その主なものを拾い上げると、表表紙に本件両辞典の箱を破損し、辞書本文の所々に赤字で×印を付して頁を引きちぎり紙屑のように丸めるなどした写真を掲載していること(第六別紙)、「『研究社の中型辞典はまともには使えない』という事実は、本当に英語ができる人はとっくに気づいていなければならないことである。」(整理番号C2)、「研究社という、日本英語学を取り仕切っている出版社という大伽藍の内部が、すでに、……今やガランとした巨大な中空状態、すなわち、vacant mind(空虚な頭)となっているのではないか。」(整理番号C3)、「よくもまあ、今日まで、こんなにも悲惨で無惨で残酷な英和辞書の現状を放置してきたものだ。」(整理番号C4)、「研究社の英和辞書を筆頭とする日本の英語教育の嘘八百……に対する群発地震はつづくだろう。」(整理番号C7)、「いつ、誰が、こんなめちゃくちゃな偽造をやったのか。偽造者はただちに出頭せよ。そして、日本国民すべてに、土下座して謝罪せよ。」(整理番号C12)、「どこの馬の骨とも知れない英語学者が造文して、以来この文はいろんな辞書に掲載されている、情けないぐらいの日本英文である。文化勲章でも授与したいほどの、低劣な内容である。」(整理番号C15)、「この種の故意あるいは無能ゆえの省略による欠陥表現は、『ライトハウス』全体にわたって見られる。」(整理番号C16)、「もし、ここであれこれ屁理屈をつけて居直るならば、あとは地獄への道しか残されていない。」(整理番号C18)、「Kenkyusha's dictionaries are defective.(研究社の辞書は欠陥辞書である)となるわけである。アハハ。」(整理番号C19)、「自分たちだけで『できるふり』をするんじゃない。そういう態度だから、こんな無惨な辞書ができてしまったんじゃないか。」(整理番号C20)、「ここまでくると、恥も外聞もないマヌケ集団だなと悪態をつきたくなる。自分たちが何十年もこの国の英語業界に意識的にか無意識的にか知らないが‘君臨’しているというか、のさばってきたその社会迷惑と国民公共被害たるやどれほどのものであるか、少しはまじめに考えるがいい。」(整理番号C23)、「研究社の人びとは……英米のふつうの大卒の人びとから見れば、自分たちはもの笑いの種にしかならないレベルなのだということを自覚した方がいい。」(整理番号C26)、「どういう神経をしていたらこんなメチャクチャな偽造文ができるのだろうか。」(整理番号C27)、「本当にあなた方は分かっているのか。基本的な二〇個ほどの前置詞を、本当にそれなりに自由に使いこなせるのか。正直に答えてみるがよい。」(整理番号C28)、「なぜこの優秀な日本国民が、世界から取り残されたように英語がド下手くそな国民であるのか。その理由の重要な一端に、この辞書の誤英語例文の山積み放置の事実がある。」(整理番号C29)、「『研・中』が、かくも無惨な内容にやってしまったのか。この“偽造文”の山はいったいどこから発生したのか。」(整理番号C31)、「愚かな外国語学者たちが、己の無知をお互いに長年にわたって覆い隠してきたことに起因する、この日本式英和辞典の欠陥知識のたれ流しを、外国人の友人たちの力を借りながら、私はこうして告発している。研究社には、何の反省も謝罪も、『弊社に対する中傷への抗議』もしてもらわなくてよい。ただ早々に、この欠陥辞書たちといっしょに消えてなくなってくれ、とお願いしたい。」(整理番号C34)などの記載をしていることが認められる。このように、本書は、本件両辞典が間違いだらけで使い物にならないこと、原告及び本件両辞典を編纂した英語学者と英文校閲者が無能であること、本件両辞典は絶版にすべきことなどについて、多数の箇所にわたり、表現を変えて執拗に記載するものであり、その個々の内容もいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっている。しかし、英和辞典に限らず、およそ辞書は、当該分野の権威者が多数の執筆者を擁し長年の歳月と多大な費用をかけて編纂するのが通例であり、その内容の正確性については一般の書物とは比較にならないほど大きな信頼を得ていることは前示のとおりである。そして、《証拠省略》によれば、本書が論評の対象とする本件両辞典は、英語学において顕著な業績を残している学者が編者となり、大学教授や高校の教諭など多数の執筆者、校閲者が関与し、何万語もの見出し語とそれに対する語義、用法指示、例文などを英米の辞書や文献等を参照しながら選別、記述したものであって、製作には初版で八年程度、改訂時にも六年程度の歳月を要している学術的労作であることが認められるから、このような対象を批判するに当たっては、その表現方法や表現内容についても、それなりの節度を要求してしかるべきである。以上のような諸事情を総合考慮すると、編集方針等を批判する部分における本書の論評は、前提として指摘する事実の一部に真実であると認められるものはあっても、全体として、論評としての域を逸脱するものであるといわざるを得ず、前提事実を離れて論評自体としても適法であるとは認められない。

六  真実と信ずるについての相当性

1  次に、事実の摘示に係る部分が真実と認められないものについて、真実と信ずるにつき相当な理由があるか否かについて検討するに、前記認定事実及び《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

(一) 被告副島は、大学卒業後外資系の銀行に三年半勤務し、その後著述業と予備校講師をしている者であるが、予備校において、イングランド生まれで、カナダ、オーストラリアで生活した経験を持つゲルダーと英作文の共同授業を担当する中で、受験生から辞書の記載とゲルダーの講義内容が異なるとの質問を頻繁に受け、辞書の記載がおかしいことを少しずつ具体的に認識するに至り、おかしいと考えた例文を記録していた。そして、平成元年三月ないし四月ころ、被告会社に本書出版の企画を持ちかけたところ採用され、それまでに集めた例文の分類やそれに関する評論部分の執筆等の作業に入った。

(二) 被告副島は、平成元年七月一〇日ころから約一〇日間、ゲルダーとともに旅館に籠もり、ライトハウスのGの部について検討した。その後、被告副島は主として例文の誤り等を指摘する部分の執筆作業を行い、平行してゲルダーは本書第四章のEnglish-Japanese Dictionary : Their Responsibility for the Poor State of English Education in Japan(日本英和辞典の責任―日本の貧しい英語教育の現状に対して)と題する評論を執筆した。ほぼ原稿が出来上がった段階で、スウェーデン生まれで非英語国民ながら日本で英語を教えているLis-Britt Dalkarl(以下「ダールカル」という。)が全体を校閲し、本書第四章のWomen and Men in Kenkyusha's Lighthouse(「ライトハウス英和辞典」に現われる男と女)と題する評論を執筆した。さらに校正の段階で、イギリス人のGary David Hunt(以下「ハント」という。)が英文の校閲を行った。そして本書は、平成元年一〇月二四日に発行された。

(三) 本書には、例文が不適切又は間違っているといえる根拠について、「何と比較してその英文例文がメチャクチャなのか、というならば、私たちは、今、手元に置いてある'Pocket Oxford Dictionary'(いわゆるP.O.D)と、'COLLINS COBUILD Essential English Dictionary'(コリンズ・コビュルド英辞典)と'Webster's New World Dictionary Third College Edition'(ウェブスター大辞典)と'Longman Dictionary of Contemporary English'(ロングマン現代英語辞典)と'The Random House Thesaurus College Edition'(ランダムハウス英語辞典)と、他ならぬ研究社の『新英和大辞典(第五版)』と、それから八八年四月、すなわち去年出た大修館の『ジーニアス英和辞典』など合計三〇冊ほどの英語辞典の例文との比較のうえで言うのである。もとより、英米で使われている国民辞典に、明らかなまちがいがあるわけがない。」との記載がある(一二~三頁)が、例文の誤り等を指摘する部分において、実際に、英米の辞書を一つでも引用して批判しているものは、整理番号A15、27、30、32、36、45、51(ただし、具体的記述はない。)、54、B9の九個、本件両辞典以外の我が国の辞書を一つでも引用して批判しているのは、整理番号A1、16、B2、3、5ないし7の七個、他の辞書を調べたが同様の例文が掲載されていないなどとするものは、整理番号A41の一個にとどまる。そのうち、整理番号A15、16、27、54、B3、7、9の七個は、前示の判断において、摘示事実が真実であるか又は公正な論評に当たるとして適法とされているので、例文の誤り等を指摘する部分のうち、本書の指摘する事実が真実とは認められないと判断されたものの中で、内外の辞書を引用しているものは、わずかに一〇個ということになる。そして、これらの一〇個も、整理番号A1については、前記「英語辞書大論争」の中で、被告副島自身、その例文が英語として存在することを否定できない、「機能する」の意味のgoを私が知らなかったことになるなどとしているほか、OALD4にも全く同じ例文が掲載されており、また、整理番号A30についてはLDPVに同様の例文が、整理番号A32についてはOALD4やOED2に同様の例文が、整理番号A41についてはジーニアス英和辞典に全く同じ例文が、整理番号A45についてはLDCE2に同様の語義が、整理番号A51については、OALD4、CED2、RHD2に同様の語義ないし例文が掲載されている。さらに、これら以外に本書の摘示する事実が真実であるとは認められないと判断されたもののほとんどについて、内外の辞書に同一ないし類似の語義や例文が掲載されている。

2  右認定事実に照らすと、被告副島は、その外資系銀行での勤務歴や予備校講師としての経験上、日本人としてはそれなりに英語に慣れ親しんできたものであり、その中で本件両辞典の内容に疑問を持っていたことは窺われるが、本書を執筆するに当たり意見を求めたネイティブ・スピーカーは主としてゲルダー一人にとどまり、同人もイングランドに生まれ、カナダ、オーストラリアに在住した経験があるにすぎず、そのほかには非英語圏生まれのダールカルとイギリス人のハントに校閲をさせたほかは特に外国人に対する取材をしていないのであって、本件両辞典の個々の例文と内外の辞書の例文との比較対照作業を逐一綿密に行ったものかは疑わしいといわざるを得ない。そして、本書の摘示する事実のうち真実であるとは認められないものについて、被告副島が他に独自の的確な調査研究を行い、これを裏付ける資料を有していたことを認めるに足りる証拠はないから、同被告、ひいては同人の行為を前提とする被告石井、同蓮見及び被告会社が右の点につき真実と信ずるにつき相当な理由があるということはできない。

七  まとめ

以上の認定及び判断によれば、本書の指摘の中には、摘示事実が真実であるか又は公正な論評に当たるとして、違法性を欠く部分もあるが、読者の普通の注意と読み方とを基準とし、これらの記述を除いて本書を全体として読んだ場合には、本書の執筆、編集及び発行並びに本書の新聞紙上への広告掲載は、原告の名誉を毀損する不法行為を構成するものというべきである。

第四被告らの責任原因について

一  原告は、被告蓮見、同石井及び同副島が、本書発行の当初から原告の名誉を毀損する意図の下に本件両辞典を取り上げ誹謗中傷した旨主張する。しかしながら、被告らは、我が国の文科系知識人の中に国際的に通用する人物がほとんど存在しないのは、原告とそれを取り巻く学者を中心とする我が国の英語教育に原因があるとの信念から、本件両辞典を批判することによりより良い辞書が製作されることを願って本書を発行したことは、前記第三の三に認定したとおりである。したがって、本書の内容の多くの部分が真実とはいえず、表現も穏当でない部分が多いことを考慮したとしても、被告らに本書発行の当初から原告の名誉を毀損する意図があったとまで認めることはできない。

二  次に、原告は、被告副島、同石井及び同蓮見は、本書の著作、編集、発行に際して他人の名誉を違法に毀損するような表現行為を行わないように注意を払うべき義務を負っているにもかかわらず、右注意義務を怠った旨主張する。そこで検討するに、被告副島はゲルダーらと本書を共同執筆し、著者の中で中心的役割を果たした者であり、被告石井は本書の編集人として、被告蓮見はその発行人として、本書の出版に関与したものであること、被告蓮見は被告会社の代表取締役であり、被告石井は被告会社の被用者であることは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、被告石井は本書の題名及び表紙の決定過程にも深く関与していたことが認められる。そして、被告副島、同石井及び同蓮見は、それぞれ本書の執筆、編集、発行に際し、他人の名誉を違法に毀損することのないよう注意すべき義務を負っていたものであるところ、前示の事実関係によれば、右注意義務を怠って、原告の名誉を毀損したことが認められる。そうすると、被告蓮見、同石井及び同副島は民法七〇九条に基づき、また、被告会社は、その代表者及び被用者が行った右行為について、商法二六一条三項、七八条二項、民法四四条一項及び同法七一五条一項に基づき、それぞれ不法行為責任を負うものというべきである。

第五損害等について

一  逸失利益

1  《証拠省略》によれば、全国の高校の教育現場によっては、指導の便宜のため英和辞典のいずれか一冊を選定し、これを生徒に対して推薦する一点推薦の指導が行われていること、この推薦を得るため、原告ないしその関連会社として委託販売業務を行う研究社販売の担当従業員において、新学年の推薦辞書が決定する毎年一、二月ころより前に、右のような指導を行っている全国の高校を回って推薦を決定する権限のある英語教諭に会い、本件両辞典を中心とする原告の商品の販売促進活動を行っていること、本書の出版前の平成元年度(昭和六三年九月一日から平成元年八月三一日までの事業年度)に本件両辞典のいずれかが一点推薦を受けていたのに、本書出版後の平成二年度(平成元年九月一日から平成二年八月三一日までの事業年度)に推薦から外れた高校は、新英和中辞典については一七校(九七校から八〇校に減少)、ライトハウスについては一七八校(五三三校から三五五校に減少)に上ること、販売担当従業員は、右のとおり推薦校が減少したのはほとんどの場合本書の出版に原因がある旨社内報告していることが認められる。

2  しかしながら、他方、《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

一点推薦の辞書の選定は、高校の教育現場において生徒の指導に当たる英語教諭等の教育実践に基づく裁量的判断にゆだねられている。しかし、一点推薦されていた辞書が変更されるのは、競合商品が新刊ないし改訂版として出版されることを契機とする場合が多いため、競争が激しい英和辞典市場の下では、同一辞書が出版してから何年間にもわたって商品価値を持続することは困難であり、本件両辞典の編者である竹林も、四、五年で改訂する必要があるとしている。現に、本書出版の前には、昭和六一年一一月に旺文社のサンライズ英和辞典が、昭和六二年一二月に三省堂のニューセンチュリー英和辞典が、昭和六三年四月に大修館のジーニアス英和辞典が、同年九月に福武書店のプロシード英和辞典が、平成元年四月に大修館のフレッシュジーニアス英和辞典がそれぞれ刊行されており、激しい競争状態を呈していた。これに対し、本件両辞典については、新英和中辞典は昭和六〇年に第五版が刊行され、ライトハウスは昭和五九年に初版が刊行されて以来、本書出版に至るまで改訂がされておらず、平成二年度の推薦辞書を決定するに当たり高校の英語教諭等の間では本件両辞典の改訂時期が近いことがある程度知られており、ライトハウスについては販売担当従業員によって平成二年に改訂版が出る予定となっていることが知らされたこともあった。また、平成元年四月に刊行されたフレッシュジーニアス英和辞典は、ライトハウスと同レベルの辞書であるが、平成二年度に初めて推薦獲得競争に加わったものであるところ、従来本件両辞典を推薦していた高校が同年度に推薦を変更したとして原告が高校別営業報告書を提出している一〇校のうち、新たにフレッシュジーニアス英和辞典を推薦した高校は、複数推薦となったものも含めると七校に及んでいる。さらに、三重県立津高校の英語科主任教諭のように、ライトハウスが推薦から外れたことと本書の発行とは関係がないとする者も存在している。そして、原告は、高校から推薦を得た場合には販売部数の五パーセント相当分を献本し、これによって実質的に割引をしていたが、競業他社の中には中間の書店を介在させない直接取引を行うことによって実質的に二〇パーセントの割引を行う出版社もあった。

右認定事実に照らすと、一点推薦の指導が行われている高校における推薦辞書の選定は、生徒の指導に当たる英語教諭等の教育的・裁量的判断にゆだねられているが、その際、競合商品の新版ないし改訂版の出版が大きな考慮要素とされているところ、英和辞典市場は競争が激しく、本件両辞典の刊行後、競業他社が競って学習用英語辞典を刊行していたことは明らかである。特に平成二年度においては、市場に新たにフレッシュジーニアス英和辞典が参入したことにより、同レベルで刊行からすでに五年が経過していたライトハウスが相対的に競争力を弱めたのは自然の成り行きであり、新英和中辞典も同様に競合商品の影響を受けたことは十分考えられるところである。競業他社の中には自社との直接取引によって実質的に割引率を高める営業努力を払った出版社もあり、このことは市場競争の激しさを窺わせている。そして、本書の出版前の平成元年度に本件両辞典のいずれかを一点推薦していた前記高校の数がどの程度に確固としたものであるかを認めるに足りる証拠はないこと、本書の出版後に本件両辞典を一点推薦から外した高校の英語教諭の中には推薦辞書の変更と本書の発行とは関係がないとする者も実在することなどを併せ考慮すると、本書の発行と前示のような本件両辞典の一点推薦校の減少との間に相当因果関係が存在すると断定することはできないといわざるを得ず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。したがって、原告の主張する逸失利益をそのまま損害として認めることはできないが、その数額を証拠上算定することはできないものの、本書の発行及びその新聞紙上への広告掲載により原告が営業上の損害を被ったことは否定できないところであるから、この点は後記三の無形損害の算定に当たって斟酌することとする。

二  本書対策費

1  《証拠省略》によれば、原告が主張する本書対策費は、(1) 本書対策として行った新聞・雑誌への広告宣伝に要する費用(第九別紙の本書対策費一覧表の3の①)、(2) 原告が本件訴訟を提起した際に記者会見をした模様を記録したときのビデオ撮影費(同一覧表の2の②)、(3)「『欠陥英和辞典の研究』の分析」等の本書対策資料の作成、郵送費(同一覧表の1、2の①、③、④、3の②ないし④)の三種類に大別されることが認められる。

2  まず、広告宣伝費についてみるに、《証拠省略》によれば、原告が本件訴訟において費用を請求する新聞・雑誌の広告宣伝のうち、三種類(甲一〇の2、4、5)は原告自身が広告主とされているが、その余は研究社出版が広告主とされていたこと、原告自身が広告主とされているもののうち、甲一〇の5にあっては全体を、また、甲一〇の2、4にあってはスペースの大部分を本件両辞典等の原告商品自体の宣伝に充てるものであり、本書と関係のある記載は研究社出版が刊行している時事英語研究一九九〇年一月号の広告中の「『欠陥英和辞典の研究』批判第1弾!」との紹介記事にとどまること、研究社出版が広告主とされているものについても、時事英語研究等の同社発行の雑誌の広告の中で本書に対する反論の記事があることを記載するにすぎないことが認められる。

このように、原告が本書対策として新聞・雑誌に掲載したと主張する広告は、いずれも原告及び関連会社が自社商品の宣伝のために行う通常の営業活動の一環としての広告とそれほど体裁を異にするものではなく、むしろ前記広告を見た読者の受ける印象としては、その主眼は本件両辞典や時事英語研究等の商品の宣伝に置かれていると感じられるものであって、本件両辞典の売上減と本書発行との間に相当因果関係を肯認し難い本件においては、このような広告宣伝についてまでその掲載関係費用と本書発行との間に相当因果関係を認めることはできない。なお、研究社出版を広告主とする広告宣伝費については、原告、研究社販売及び研究社出版の間での合意により、その一部を原告が負担することになったとしても、そのことから当然にその負担した広告宣伝費が本書の発行と相当因果関係のある損害となるわけではない。

3  次に、ビデオ撮影費は、原告が本件訴訟を提起した際に記者会見をした模様をビデオに記録しておくべき合理的な必要性に疑問があるから、本書発行と相当因果関係のある損害ということはできない。

4  そこで、本書対策資料の作成、郵送費について検討する。

原告が、本書出版後の平成元年一二月、本書の指摘に対する原告の反論として、本件両辞典の編集委員ら六名のネイティブ・スピーカーの意見を中心にした「『欠陥英和辞典の研究』の分析」なる小冊子を作成し、全国の高校約五一〇〇校の英語教諭等にこれを配付したことは前示のとおりである。また、《証拠省略》を総合すれば、原告は、本書対策のための資料として、右小冊子一万五〇〇〇部のほか、「欠陥『欠陥英和辞典の研究』の研究」六〇〇〇部及び「別冊宝島102『欠陥英和辞典の研究』に関する研究社の見解」一〇〇〇部を作成し、また、時事英語研究の前記「『欠陥英和辞典の研究』批判第1弾!」(編集部)の抜刷り一万二〇〇〇部と「『欠陥英和辞典の研究』批判第2弾!」(東京外国語大学教授東信行)の抜刷り六〇〇〇部及び現代英語教育の「『欠陥英和辞典の研究』の嘘」(明海大学教授山岸勝榮)の抜刷り一万八〇〇〇部を作成して、これらの資料を平成二年一月ころまでに高校英語教諭その他の関係者に配付し、さらに、研究社特約店通信一九八九年一一月号に「別冊宝島102『欠陥英和辞典の研究』に関する研究社の見解」を掲載して、右特約店通信一七〇〇部を平成元年一一月ころ特約店に配付したこと、原告は、右資料の作成、配付のための印刷・製本代、郵送費、人件費等の費用として、第九別紙の本書対策費一覧表の1記載の合計一六八万四一一七円を直接請求元に支払い、また、原告の関連会社として本件両辞典の委託販売業務を行う研究社販売が請求元に支払った費用のうち、同表の2の①、③及び④記載の合計一七八万四五一三円を負担したほか、同表の3の②ないし④記載の合計二八万六七五八円の四分の一に相当する七万一六八九円を研究社販売及び研究社出版との三者間の合意に基づいて原告が負担したことが認められる。

ところで、原告は、出版等を目的とする会社であり、長年にわたり英語に関する辞書、学習雑誌及び研究書等の出版を多数手掛け、昭和四二年に新英和中辞典を、また、昭和五九年にライトハウスをそれぞれ出版し、その後版を重ね、新英和中辞典は、昭和六〇年に第五版、平成六年一一月に第六版を出版して、第五版までの発行部数は約九〇〇万部に及び、ライトハウスも、平成二年一〇月に第二版を出版して、初版の発行部数だけでも二八〇万部であること、本件両辞典は本書発行当時の原告の売上の約四〇パーセントを占める主力商品であり、高校生を中心に大学、実業界その他各方面の一般読者に幅広く利用されていること、しかし、本書の発行当時、競業他社が競って学習用英和辞典を刊行し、英和辞典市場は激しい競争状態を呈しており、刊行時からすでに相当の年月を経ていた本件両辞典が相対的に競争力を弱めていたことは前示のとおりである。そして、前記認定事実並びに《証拠省略》によると、被告会社による本書の発行とその新聞紙上への広告の掲載を契機として、新聞・雑誌等のマスコミが「『例文の二割不適切』告発本が指摘」「『ナデ斬り』ベストセラー英語辞書」などと大きく報道し、有識者がこれを広く取り上げたこともあって、原告及び研究社販売には、英語教育関係者や読者等から本件両辞典の信頼性等に関する多数の照会、質問等が殺到したこと、また、本書発行後に本件両辞典の一点推薦を見合わせる高校も出現するに至ったこと、そこで、原告は、本書によって毀損された原告の社会的評価を回復するとともに、本書に関する照会、質問等に適切に対処して、前記のような激しい競争市場の下で本件両辞典の販売促進活動をやりやすくし、売上の減少防止を図ることを主な目的として、アルバイトを雇ったり特定の従業員を専従させるなどの営業努力を払い、前示のとおりの本書対策資料を作成配付し、その関係費用として前記認定額の合計三五四万〇三一九円の支出を余儀なくされたことが認められる。

そうすると、右支出相当額は、被告らの前示不法行為により原告が被った直接損害であるといわざるを得ないが、他方において、本書の批判する八五個の例文のうち、摘示事実が真実であるか又は公正な論評であるとして適法と認められるものが、整理番号Dの中に論評に該当するものを除いても二七個あり、現に本書発行後に刊行された本件両辞典の改訂版では、本書の指摘に沿う形で例文が変更されているものも多々見られること、本書対策資料のうち中心をなす小冊子「『欠陥英和辞典の研究』の分析」の内容は、本書の指摘がすべて誤りであるとして、これに対し真っ向から反論するものではなく、非は非として認めるものであること、右小冊子を含む本書対策資料の作成、配付は、激しい競争市場を背景にした本件両辞典の販売促進活動の便宜や売上の減少防止を主な目的とするものであって、原告の営業活動ないしは企業防衛の一環としての性格が強いことは前示のとおりであるから、以上の諸事情を総合勘案すると、原告の前記支出額の全部を被告らに賠償させることは公平を失するというほかはなく、民法七二二条二項の過失相殺の規定の類推により、右支出額のうち一〇〇万円の限度において、これを被告ら各自に賠償させるのが相当というべきである。

三  無形損害

原告は、出版等を目的とする会社であり、長年にわたり英語に関する辞書、学習雑誌及び研究書等の出版を多数手掛けていること(《証拠省略》によれば、原告は、その前身時代を含めて明治四〇年の創業以来、広く初心者から上級者までの各層を対象として約二〇〇点に上る英語辞書を出版してきた斯界の草分け的存在であり、現在も五〇点から六〇点くらいの辞書を手掛けていることが認められる。)、本件両辞典は本書発行当時の原告の売上の約四〇パーセントを占める主力商品であり、高校生を中心に大学、実業界その他各方面の一般読者に幅広く利用され、我が国で一番売れている辞書であって、その内容の正確性において読者の絶大な信頼を得ていたことは前示のとおりである。本書は、このような本件両辞典に掲載されている例文のかなりのものが誤っているか又は不適切であり、本件両辞典は欠陥辞書であるなどとして具体的根拠を挙げて批判するものであって、本書の発行及びその新聞紙上への広告掲載は、比類のないほどの内容の正確性によって死命を制せられる辞書を刊行している原告にとって看過し難い重大な内容を含むものであり、原告が長年にわたり築いてきた英語教育関係者及び読者の間における信頼を損ね、原告の社会的評価を低下させるに足りるものであったことは前示のとおりである。また、具体的な数額は算定できないものの、原告が被った前記のような営業上の損害も無視することができない。

しかしながら、原告は、英語に関する出版等に長年携わってきた実績のある会社として固有の反論手段を有しており、現に、被告会社による本書の発行とその新聞紙上への広告掲載がされると、いち早く、本書対策資料を作成して英語教育関係者に配付し、関連会社である研究社出版刊行の専門雑誌等で本書に対する反論記事を掲載するとともに、右記事を掲載した雑誌を新聞・雑誌によりひろく広告宣伝して、本件両辞典の内容の正確性及び本書に対する自己の見解を明らかにする措置を講じたことは前示のとおりであって、これにより、原告の社会的評価は相当程度に回復されたものと認められる。そして、前示の事実関係からすると、本書発行の主たる動機は、我が国の英語辞書の例文には実際に英語圏で用いられている英語を基準にすると不自然なものがあり、このことが日本人が何年も英語を学習しながら自由に話したり聞いたりすることができず、我が国において国際的に活躍する文科系知識人がなかなか現れない原因ともなっているとの英語教育の現状認識に立つものであって、こうした観点から我が国の代表的な英和辞典である本件両辞典に対する問題提起を企図したものと認められる。また、本書の指摘のうちには正当なものもいくつかあり、現に、本書発行後に刊行された本件両辞典の改訂版では、本書の指摘に沿う形で例文が変更されているものも多々見られることも前記認定のとおりである。このような本書の出版により、今後、英語辞書を編纂する者としては、今まで以上に実際に英語圏で用いられている英語に配慮した編集をする必要に迫られるものと思われ、ひいては英語教育関係者及び読者においてより良い英語辞書に触れる機会が増大することにもなるから、本書がこうした意味で本件両辞典のみならず英語辞書の出版関係者に対して投じた一石も顧慮に値する。

そこで、これらの諸事情を総合勘案すると、本書の発行及びその新聞紙上への掲載によって原告が被った無形損害に対する金銭賠償としては、社会観念上、三〇〇万円をもって相当と認める。

四  謝罪広告

原告が、本書対策資料の作成・配付、専門雑誌上の反論記事の掲載等のいち早い措置を講じたことにより、その社会的評価を相当程度に回復したものと認められることは前示のとおりである。また、《証拠省略》によれば、本書発行後、ライトハウスは、平成二年一〇月に、六年ぶりに第二版が刊行され、新英和中辞典は、平成六年一一月に、九年ぶりに第六版が刊行され、それぞれ改訂されていること、右改訂により、ライトハウス第二版は、収録語数を大幅に増やし、新たにボリンジャーとイルソンを編集顧問として用例等の校閲や例文の執筆に当たらせるなどそれまでにない特色を有するものとなったこと、新英和中辞典第六版も、収録語数を増やし新語を入れ古い記述を外すなどして内容を一新させ、既に利用者から新たな信頼を得ていることが認められる。その他、本書発行の動機、社会的意義など前示の事実関係を総合勘案すれば、本件において、前示金銭賠償のほかに、被告らに原告主張の謝罪広告をさせる必要性はないものというべきである。

第六結論

よって、原告の本訴請求は、被告ら各自に対し不法行為による損害賠償として四〇〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成二年一月二八日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項ただし書を、仮執行宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 篠原勝美 裁判官 生島弘康 裁判官 岡崎克彦)

<以下省略>

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